謝罪を受けた。
心の篭らない感情とは裏腹の、言葉だけの謝罪。
謝罪した人間が12人居て、その中で事実を理解し本当に悪いと思い反省をしていたのがふたりだけ。気持ちと言葉の連動した謝罪。それはひと組の親子のみの謝罪に値する、場。
本当に悪いことをしたと反省していたのはひと組の親子だけ。
変化としての自己を受け入れた、ふたりの親子。
事実の認識に勤めた、親。見えない人間関係の掟までもを思案した、子。
同席していた残りの人間は、その親子の言葉を侮蔑する。言葉には出さずに侮蔑していた。
ごめんなさい。すみません。申し訳ありませんでした。
これらの言葉を口頭だけで言うならば、言う必要など無い。偽の謝罪。
余りのばからしさに思わず
「練習してきた通りにできたか…………」
と、問おうかと思った。なんせ、謝罪とは名ばかりでただの台詞でしかないのだから。
謝罪がきちんとできない人間は、人間としてどうかと思う。
謝罪を本気で出来ない者が共通している事柄とは――、
感謝の意味を理解できず
ゆえに当たり前のことなどこの世にはなにひとつ無いのだという事実が、理解不能であるということ。
そうして年月だけをやり過ごす、人生。
誤魔化して逃げ、不都合なことは正当化する。
だから醜い気持ちはより一層醜く歪んでいく。
気付こうと、しない。
変わらなくてはと、思わない。
服に付着した食べ物の染みのように、年月と共に酸化しどす黒く変色していくシミ。
子供が悪いことをするのは必要な経験でもある。
だけれども、悪いことをして悪かったと思えないのは人として最低というよりも、ただただ下劣でしかない。
形だけの家庭、形だけの親子、形だけの友達。謝罪の部分から垣間見える、感情。紐解くように見える、光景。
霊感があるから余計に確信の確立を増す。
形だけのソレは、自分たちが望んで作った架空の幸せ。
今回(ひと組の親子の、子を除いた)その場に居た子供たち。その子供たちの精神の中心へ値する、親からの(または親の代理となる者からの)愛情は、架空の幸せで埋まった空洞が在る。
精神の崩壊はそうした空洞が引き金を引くことも在る。
今の気持ちが満足することだけを願ってきたその結果が、ソレ=子供。
こういう親の態度が虐待に値するのだということを、誰も知らないのだろうか。
有利な立場に立つ子供が精神の中心に欠損が在る。欠損の原因は、親。
ただ我が子だとしても救いようの無い魂を持つ者も居る。
反省という、回路も思考も感情も、持たぬ人間も居る。
だとしてもそこまで理解している親なら、尚更変化を望み伝えようとする、はず。
だがしかし、今回の場合はどっちもどっちで親子そろって反省どころか、現実的に何がいけなくて何が良いのかという分別ができていない。それゆえいわゆる前者となる。
人は下劣になると留まるところを知らない。
地位や財産のどこに、意味が在るのかと思う。
下劣に成り下がるための、地位や財産に一体なんの価値があるのだろう。
ごくごくありふれた親子。
ソレは下劣な人間たちでしかなかった。
ただひと組の親子を除いては。
[9回]