白月光
My thought(私の思想)|呪術・霊感・福島の母 占い軒龍卑【白月光】

呪術・霊感・福島の母 占い軒龍卑【白月光】

あなたは本当の自分で生きてますか?

桜の恩恵と鋼の心の話

【今年の桜】


桜の木からは抗菌作用のある成分が出てるそうですね。医学的に脳を鎮静させる香りの素も含まれているとか。桜から出ている成分で興奮を抑えてリラックスするみたいです。
また悪酔いも防ぐようなので桜の木下でお酒を飲むのは理にかなってるという事になりますね。


話は変わりますが、最近なんと無く思っているのが生き方を見失ってしまった人が増えたなと思います。

コロナが流行って云々というのもそれはそれであると思いますが、私が感じているのはコロナが流行る以前からです。

プラス思考を履き違えた人がゾロゾロ進行していて、(その人たちと同じ土俵に乗り上げたけど)右習えをしたのに出来なかった人たちは世の中から否定され弾かれた人間として生きているような、そんな違和感を感じています。

これは立ち位置(世間の目というか・・・)が、真実はあべこべなんじゃ無いのかなと思っています。

全ての人がそうとは思わないですが、ただプラス思考は大切だけど、辛い時に辛いと感じる心はもっと大切なんじゃないかなと。

簡単にいうとプラス思考的な発想により弱さを認めない人が増えているように思えますが、これは弱さを差し引いた自分を【本当の自分だと】思ってしまうと同時に心にバグを抱えることにもなってしまう場合もあります。

なんというか…うまくいえないけど
勝ち組と負け組が本当は反対なんじゃ無いかとそう考えることもあります。

勝ち組(の、その中の一部には)【形だけの勝利の経験】が災いして、優越感や人とは異なる多幸感により、本当の自分と向き合おうとしない人が存在したりします(というよりも、正しくはその事実に気がつかず向き合うことができないのかと)。
それはつまり水面下で【心の闇を】培養するきっかけにも繋がる事があります。
だからと言って負け組の方が良いよという意味とは違うのですが。しかし負け組の中の一部分の人間には、勝ち組の人には無いしなやかな心のバネを持っている方が存在しています。
この心のバネは、世間から何度も心を叩かれることでのみ鍛えられるようになっていて、しかもこの心のバネを初めから持っている人間は居ないのです。
いわゆる鋼の心というものですね。鋼の心というとムードメーカーや華やかな人物を想像すると思いますが、たくさんの人を見てきた私が思うのは、華やかな世界に住んでる人たち(いわゆる勝ち組?)と言われる人々の中でも本物の鋼の心を持つ人は一握りなんじゃないかなと。
鋼の心の多くは世間で言う負け組と言われてる人の中にかなり存在しています。
ただ存在はしてても、その存在の大半は事実に気づく機会を与えられないことが多いので、芽が出にくい状況に晒されてることがほぼという印象を持っています。
(世間が作った印象操作による不慮の事故とでも言うのか)
もちろん(世間的な意味で)負け組と思われる中に鋼の心を持ち自覚してる人は多数いると実感しています。

長くなってしまいましたが・・・

要は見える事だけに頼ると自分の一度だけの人生を変えてしまうことにもなります。脳がすんなり世間の言うすり替えられた常識を受け入れてしまうと、心と脳の連結が取れなくなり生きていく上で色々と支障が出てきてしまいますよということを話したかっただけなんですけどね。

また前文でわかりやすくするために勝ち組とか負け組とか書きましたが、勝ち組も負け組という括りも、泡のように消えていく在るけど無いものと私は思っています。

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本当のことへ辿り着くまでに言葉は違っても






桜は心の温度を穏やかにしてくれます。

変わらないものなどこの世には存在しませんが、桜もその多くの中のひとつですね。



先日とある本を読んでいたのですが、人の目に映る事柄は「全てが幻である」というようなことが書いてありました。

「全てが幻である」ということと同じ意味の内容を、私自身、自分なりの言葉で理解はしてましたが、自分以外の人が表現した言葉(文章)を読むことで、仮にそれら言葉(文章)が結果的に私が思う内容と全く同じ意味を示しているとしても、自分とは異なる視点、つまり視点の違いというのは良かれ悪かれ気づきにもなるのかなとも思います。というかそこでしか気づきは得られないとでも言うべきか•••。
なぜなら、気づきとはいつもと違う思考が入り込んだ時しか「気づき」はあり得ないので。


ちなみに、物事を捉える時の的確な視点を増やしていくことで唯一無二の真実へと繋がることも多々あります。


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占い 軒龍卑 「意志がもたらす事情」

できない

やらない

そのどちらだろうと思う。

あるいはそのどちらでもないかもしれない。



今あった決意だと思える気持ちが
諦めに似た気持ちが現れることで
次の瞬間には決意が消え、諦めが心地よく広がっていく

なのに罪悪感と共に再び決意はよみがえり、良く言えば中途半端な意志、悪く言えば適当という事実となりそれら感情は実在したりする。

このように金魚が水面に浮かぶような行為である、繰り返す意志の浮上は…
それはつまり、虫が群がっている甘い香りは罠なのだと知らずに近づくようなものだし、結局は罠だと分かっていない状態であって、ハッキリ言えば状況をちゃんと理解してないという現実を示すものだし現実を見てないとも言える。


いつもとは異なる慣れてない感情の位置に負荷が掛かった時、人はそうした継ぎはぎだらけの意志みたいに見えるソレの全貌が現れたりするもので。
現時点での実力のほどを知ることで金魚の浮上が出来なくなり、いかに誤魔化して生きてきたのかを嫌でも知ってしまう事がある。
分かったつもりになっていた自分や出来たつもりになっていた自分が
価値の無い自分を目の当たりにして…
もがくか・逃げるか・受け止めるか。行動の選択肢からすればただそれだけのことなのかもしれないけれど、どの行為を選ぶのかはそれまでの生き方とすごく関係してて。
だけれども見かたを変えると、殆ど諦めてるにもかかわらずちょっとだけ良い自分が残ってるわけで。そのちょっとだけ良い自分がどれだけ踏ん張れるかというところで、人間性が、生き方が、自分が、変われる…。という意味と繋がるのだと思う。

そこが意志という結果論になり、と同時に人間性ともなりうるポイントなわけで。

どう生きるかは自分次第なのだけれど

それでも…永遠の命ではないし一度だけの限りある命なのだから
自分に対し敬意を払って生きなくてはいけないと思ったりもします。

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自由の意味について軽く辿ってみる

ふと思ったこと。

俗に言う自由とは不自由のことなんじゃないのかと。
(自己啓発的な意味で“自由になる”の、自由)

なんとなくですがそんなふうに感じました。


いわゆる状況の自由を求めることを自由になることだと結論付けてしまうから自由が不自由になるわけで。

自由の収まる場所ってつまり心の位置と視点のこと。ただそれだけできれば自由、つまり自由という言葉は不適切であり、正しくは自然な自分でいれるということになるんだと思う。

つまりそもそも自由とは俗説(根拠のない話しというか俗説から生まれた言葉)であり、実際に存在しているのかどうかさえ疑問なのではないのかと思う。

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現実についての考察

この世の本当を知っていく過程で思うことがある。

正しいことが正しいばかりではないと、また、正しいことがどんなに正しくても正しさが空中分解してしまい正しいの意味を成さなくなることもあると。

だがそれでも言えることは行動により結果が決まっているのではなく、気持ちにより行動の中心が決定しある種の拘束ができそこへ行動が加わることで結果が決まってしまうということ。






辛さのループから抜け出れ無い時とは
もともと綱など存在してないのに、さも綱渡りの状態が実在しているかのようにして床の上を歩く時であり。
また、そこが床でしかないのに空中だと思い込む現実を自己内で作り上げるから思うように歩けないし不安も膨らむのであって、それゆえ悩みという存在しないテーマへと移行するわけで。

つまりそれらは空想(非現実)というだけのことでただそれだけのことでしかないのに、悩みへと突入した挙句どうにもならないことをどうにかしようとするため人は時に「衝動から繋がって“くれるはず”の未来絵図が」実在するのだと思い込んでしまう。


だがしかしそのルートからの現実とは、単純に未来は存在したとしても、“在るはずだと思い込んでいた「衝動の詳細でもある、つまり衝動を根幹として湧き出てきた願いや思い、気持ちなどからの未来は」現実の中に形など残せない”ものだし繋がっていると思っていた今と未来を結ぶ点と線も存在してはいない。

この状態が何を意味するのかもう少し優しい言い方をすると、自己内の現実や自己内の常識が現実へも反映されていると錯覚していて、当然錯覚からの未来も実在していると考え、夢という名の妄想を抱いてしまう。その結果、現実を見ていないわけだから思い描いていた事とは異なる現実が実在するわけで、ゆえに今と未来とを繋ぐ架け橋だと思い込んでいた“自分の思い(正しくは衝動を根幹に発展した思いや考えなど)からの未来は実在しない(できない)と”いうことになる。

いわゆる現実を受け入れているかいないかが問題なわけでその結果現実の中で“非現実を生きる者と現実を生きる者の”差が出てきてしまうということでしかないと思う。

結局は現実を受け入れるのは人のキャパなのかもしれないが、それでも現実を受け入れなくてはいけない問答無用の現実というのが実在しているので、そういう意味で時に強引に運命の方から切り込みを入れられてしまうことがある。

だからこそ思うことは
現実を知っているというカードを持つ者だけが、いざという時に運命に立ち向かうためのステージへあがれる権利を持てるのだと思えます。




非現実を現実と思い込んだままだとどういう結末になるのかというひとつのパターンが分かるかもしれないDVD「トゥルーブルース」ブラピが出ています。興味がある方は観てみるといいでしょう。




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物事の成り立ち



最近笑ってますか?

笑える生活って大切ですよね?




お金があっても権力があっても地位や名誉があっても、お腹抱えて素直に笑える瞬間がなかったらそんなものあってもしょうがないよねって思いますが…
いかがなものでしょうか?



当たり前の生活

当たり前の日々


そういうのは当たり前ではなくて



当たり前ではないという意識が


瞬間瞬間の命を輝かせていくわけで


それはつまり謙虚な気持ち以外の何者でもないし
その気持ちがあるからこそ幸せを感じ取れる。


謙虚な気持ちって誰かやナニカに流されてばかりだと
何処かに行ってしまう感覚なのだけど……
結局こういうのって、謙虚ばかりでなくても仮に何事だったとしてもひとつのことは複数から成り立っているものだと思うんです。

まあ、それって考えないと気づかなかったり分からなかったりするから
見過ごしやすいのかななんて思いますね。

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人生の中でナニカを受け入れるタイミング的なこと~人の強さ

強くなろうとして強くなれる人はいなくて…

強いっていうのは……
気が強いのと本当に強い人は全く意味が異なっているし
ハッキリものを言うから強いわけでもないし

強いっていうのは
実際は弱いことを知っているから強いって言われてるだけだと思うんです。

強いと言われる人の多くは、ただただ誰かやナニカの立場や気持ちを理解しようと真剣になってたり、どんな状況だったとしても自己内の良い意味での気持ちを離すものかって向き合っているだけなんだけど…。

それでも、そういうのを強いねって軽い気持ちで言われたりすると、なにかの痛みを感じちょっとだけ違和感を覚えてみたり。

なんていうか、本当は強い人なんてどこにもいないんだよって思う。

誰だって弱いんだよねって、人は同じだよって、そう思う。

それでも強さが違うように思えたり差があるように感じるのは、経験とか年齢なんかじゃなく、どれだけ気持ちを込めて自分や誰かやナニカを見ているかただそれだけなんだと思う。

強いとか弱いとかって自分以外の誰かが判断するものでしかないわけだし、いわゆる結果論なので自分の中の出来事とは異なるわけしょう。それでも自分以外の誰かが判断する強さや弱さとは現実なのですが、それだとしてもまわりがどう思おうと、自分だけは誰かやナニカに対し“(弱さやもろさ、危うさを理解する意味での)裏切りたくない”という純粋な思いさえあれば、それでいいんじゃないのかなって。…充分だよね、と。

結局強さに拘る意味なんて無くて、どれだけ強くなれたかなんてのは実際どうでもいいことなんだよね。

もし人の強さがなんなのかという答えがあるとしたら、自分や誰かやナニカを裏切りたくないという誠意が自己内の信頼と繋がり、ただただその思いを継続していくだけのことなのかなと思うのです。強いという結果ではなく、続いているその様というか。

また、自分の気持ちだとしても誰かやナニカだったとしても、湧き出てくる余計な気持ちを見ないで手放しで愛してあげたらいいんじゃないかなと。手放しで愛することは人生で起こりえた何かしらの出来事を受け入れる体制でもあるわけで。


今のところ人の強さについてそんなふうに考えています。


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生きる意味について

まともな考えをするためには

 

まともな環境作りと絶え間なき気づきが必要だと思うのです。

 

 

生活の基本が歪んでいた場合

思考も当然のように歪みます。

 

つまり何かの病気の人が居て

病気を悪化させるような環境があるままだと改善はしません。

この場合、余計に症状がひどくなったり、病気が悪化したりするでしょう。

 

病気がとても酷い状態なのに、健全な考えをしなさい。

 

というほうが過酷なことになるわけで。

 

なので、まともな考えを持ちたいのであれば

まずは環境を整えなくてはなりません。

 

 

ですが、いざ問題となる場が家庭であったとしたら

なかなか厄介です。

 

 

なぜなら

 

機能不全家族という可能性も考えられるからです。

 

 

機能不全家族とは、

 

不健全な要因をそれぞれが持ち、または持ってしまい、

 

不健全を不健全と思わず「これが普通だよね」という具合に思い込んでしまうことにより

 

社会不適合に陥りやすいのですが、

 

仮に機能不全家族だった場合

 

機能不全家族から脱却するのは、かなりのエネルギーを必要としますし、年月もかかるでしょう。

 

また、個人の状態によっては必ず脱却できるという保証もないのが機能不全家族なのです。

 

 

結局、機能不全家族ばかりではないのですが、このような何かしらの「まともではない環境」があると

まともな考えに到達しづらいです。

 

 

まともな考えというより、正しい(または正義)考えの必要性はこの世の法則から成り立っているもので

人が人として生きていくためには辿りつく心境、つまり真実のひとつなのだと思います。

 

 

 

ですが、辿りつくまでの道のりが長いか短いか

あるいは死を受け入れる直前かというだけのことです。

 

 

どんなに履き違えたビジョンを持っていたとしても

生きている間には本当の事が分かるものです。

 

どう生きるかは自分次第ですが、

辿りつく真実の境地に高低の差はあれど誰もが同じように辿りつくわけですから

本気で生きるという事は大切なんじゃないのかなと思います。

 

 

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プロフィール

HN:
軒龍卑(haruka)
年齢:
54
性別:
女性
誕生日:
1969/11/06
職業:
占い師&マクラメ工芸士(講師もします)
趣味:
占い・読書(ほぼ仕事の本)・ガーデニング・その他諸々
軒龍卑の近況:
福島県福島市笹谷在住
現在は福島市笹谷にある、店舗【卯羅那石(うらないし)】にて鑑定をしています。店舗では占いの他にマクラメアクセサリー(ワークショップもあり)・柔道整復師によるリラクゼーション・インド刺繍リボン(業者卸有り)・天然石(業者卸有り)・雑貨などを取り扱っています。

なにげ修行は一生だという考えの持ち主です。
形の無いたったひとつの本当へ意識と脳が融合した状態で辿りつくことを数ある修行の中でも最低のラインと考え実践しています。

それから近年の変化ですが、霊界との関係性に変化があり、有効な知識を蓄え血肉にするため日々鍛錬しています。

私生活では極力霊界の事情を持ち込まないように、仮に持ち込んだ場合は速やか且つ敏速に対応しています。

それから私はかなりの方向音痴です。
なので出張へ行くと数回に1度の割で逆方向へ移動することが…。
しかも霊視中にも方向音痴が炸裂するので、東西南北ではなく時計表示&前後左右で方角を説明します。

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