自分の世界観は、ある種の自己陶酔のように思えることがある。
どんなに素晴らしいものを見て感動しても、感動は其々の心により様々な音色を奏でるもの。
そしてそれらの音の根源は楽器自体が違っている。それ故、誰かと同じ音が奏でられることは無いのだ。
ひとつの事柄に対し、多くの人間が同時に持つ感動は、共鳴し、反響する。
反響は、巨大に聳え立つ繊細な粒子をつくりあげる。
その粒子達を身に纏い、其々が酔いしれたとしても、所詮は自己陶酔なのではないかと思う。
もしも、それが事実だとしたら、闇の音色を濃くしているのも自己陶酔なのだと思う。
辛くて張り裂けてしまいそうな肉体も、本当は自己陶酔をしたが故に、闇を反響により巨大化した結末なのかもしれない。
辛いことに酔うという意味では無く、闇の気だるさに引き込まれてしまった「信念」が、陶酔し麻痺しているということ。一番の心の中心が完璧に麻痺しているということ。
仮にそうだった場合、自分の世界が萎縮し視野が極端に狭くなるはず。
麻痺した信念は思考という経路を辿らなくとも良いから、気持ちは幾分容易になる。
同じ世界に居ても、同じ空間に居ても、全てが異なる音色が在る。
悲しくも、嬉しくも、我が心が奏でる音色。
だとしても――、
実際は太陽のもとに居るかもしれない自分。
実際は頗る元気な自分。
もしかしたら、そんな世界に居るのかもしれない。
だからこそ、自分は、どの位置からこの世を見ていたいのか…。
その想いが大事なのだと思うよ。
だって、その想いの全ては、今現在生きている自分自身のステージを決定するものなのだから。
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世界観「自己陶酔」~闇の中心
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自己陶酔とは井戸の中の蛙なのではないかと思う。
そして井戸の中の蛙が奏でる世界は、やはり井戸の中でしかないのだ。
だけれども、心の闇はどの世界に居ても無限に広がるもの。
広がるけれど、井戸から這い出た世界を知った分だけ「無意味な恐怖」は確実に減るものだと、そう思うよ。
もしかしたら「本当のことを知らない」という事実が、恐怖心を煽り、結果的に信念を揺るがし麻痺させてる根源かもしれないね。
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