地震除けのなまず
本日、小1時間ほど作業をしました。
カッターとナイフで削り
ヤスリをかけてみました。
なまずっていうよりも…
なんだか深海魚のようにみえるのは私だけでしょうか………(笑
蛇の目の部分には赤い石を入れようかと思っています。
ただルーターで上手く穴を開けられるかなと、ちょっと心配しています。
左右の非対称という結末があっさりと想像がつきますよ。
真っ直ぐな線を作るための作業とか、ライン的な感性。そうしたものをほぼ持ち合わせていないみたいなんで、いろいろと困ってしまいます。
話しは変わりますが、たいした話しじゃないかもしれないけれど、無心になれる何かがあると一日分の気持ちのバランスが取れるように思えます。なんとなくの調節という感じですかね。
今日の小1時間で削ったり磨いたりして無心になれたので、なんとなくスッキリとしました。
なんでも良いから無心になれる僅かな時間、その時間と溶け合う自分が存在するという事実。それはとても幸せなことだなと思っています。
生きる上でナニカの障害があることはどうしようもないことだけど、自分の中の気持ちがそのどうしようもないことと同調する意図はないわけで。
だからこそどういった状況下だとしても好きなことに触れる、あるいは無心になる。そういうのは大事だなって思いますね。
そういうのが心の潤いをつくりだし
潤滑剤となり
精神と心を満たしていくものなのかなと。
また潤滑剤が無くなってしまうと、精神も心も枯渇してしまう。そんな風に思えます。
ゆえに他愛もないことに夢中になれる気持ちを持てることは当たり前のことではないのだと。
仕事やプライベートで忙しかった、無我夢中で事を成した。だからそれが潤滑剤となって自分を満たしている、のではなく。
そうした仕事等の忙しさから夢中になったものは、潤いを失っていきます。
仕事とかで燃焼した場合は火みたいなものですかね。燃える感じとでもいうか。
火で燃やすということは結局、水分は不足します。
だからこそそうした地味に無心になれる気持ちは重要な役割を果たします。
これらの気持ちを流れに任せ無視し続けていくと、偽りの自分が知らぬ間に形成されていきます。
正義や活力など、プラスの自分の一面だけが目立つのだから当然といえば当然の結末です。
置いてきぼりになったさみしい自分。甘えたい自分。辛い自分。そういうマイナスの一面がいつかなにかのキッカケで自分へと牙を剥く。
ある日突如現れた、破滅的な感情。自分自身。
ただ破滅的な感情を異質なものとして見ることができなければ、破滅的な自分も、その自分が選ぶであろう現実もあっさりと受け入れてしまうもの。
それゆえ言えるとしたら、破滅的な感情はある日突然現れるのではなく、もともと持っている自分の本心なのだということ。
何に対しても焦って生き急ぐことはかなしいことなのかもなと、そう思います。
[2回]