幸せは感じるもの。
だから形なんか無い。
人は様々な形が在ると安心する。
特に目に見えるものなんかがあると、よけいに安心する。
民間の認定書だったり国家資格だったり。それと名刺も(怪しいのもあるけど)。
更にいえば地位や立場、名声も、人によっては形としての安心感があると思う。
目に見えるものが幸せだと一旦思ってしまうと、物があったら、恋人が居たら、なになにがこうだったら、
そしたら自分は幸せになれるとか思ってしまう。
だけれども欲しかったソノ、ナニカを得たとしても
幸せって自分の心の中以外には存在しないから空虚感が、心の中で増殖し澱のようにただただ無限に広がり続ける。
それでそのバランスを取るための、更なる形を求めてしまう。
ああ、本当は愛が欲しかったんだとか、愛されたかったんだとか、思わずこじつけの状態となる。
幸せに形を求めたら、自己の中で作り上げた偽者の幸せというシャボン玉ができあがる。
そのシャボン玉を壊そうとするナニカに対し消去したり嫌悪したりすることが幸せの法則でもないし、また、シャボン玉を維持しつづけることでもない。
要は幸せも人生も理想通りに作るものじゃなく、あるものの中で自分はナニをしたいのかというソレだけのこと。
与えられた材料があって
好きなように作ってよいです。
と
言われたにも関わらず
勝手に材料を持ってきて何かを作ったら反則。
付け足した材料によってどんなにすごいものを作ったとしても、結局は失格になる。なかったことになる。
そういうのと同じ。
なかったことになるものに対し、ムキになって形を揃えたとしても最後は何も残らない。
幸せも人生も、物を作るのと同じで作っている時が楽しいはず。
ああ、ミスったとか。
途方に暮れたとか。
上手くいったとか。
かと思ったら失敗してしまったとか。
…うまくいかなかったとしても気持ちを込めてつくるものには愛着がある。
愛着は感じるものでしかない。
ちょっとくらいいびつだったとしても、あの時のここはこうだったななんて思い出になったりするもので。
そんなのが幸せなんだと思う。
理想の、幻想の、そうした幸せはナニカのショーを観ているみたいにきらびやかで眩いものかもしれないけれど
幸せって、なんてことはないようなちっぽけなことに本気で喜びを感じることだと思う。
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