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親が悪いから子供の性格が歪む。
だけれどもそれは小学生までの、こと。
ましてや小学2年生ともなれば、自分の性格をどうにかしようと判断できる年齢。
親が子供の肉体や精神を虐待した。
だから子供が大人になった今、おかしいのは当然 な の で は な く 。
本人が変わろうという気持ちが無かったら、何も変わらない。
無情に聴こえるかもしれないけれど、ただの現実でしかない。
たとえどんな状態になっていたとしても、変わろうと思わなければ変化はないもの。それが現実。
また、本気で変わろうとするキッカケをつくってあげれる か も しれないのが、親。
子供は自分のコピーでもないし
それに大人が思うほどばかじゃない。
子ども扱いとは年齢やタイミングによっては、ある種の虐待に値することもあるはず。
なぜなら、本当の自分を出してはいけないと子供は思うわけで。
すなわち子ども扱いするということは、子供をばかだと思っていることにも共通していたりもする。
その結果、子供は、本当はもっと利口なのに子供というばかなフリを続けていれば親に愛されると勘違いしたりする。だから ば か な ま ま で いたりする子供も居る。
それは愛情に対する飢えから発する(子供からの)ポーズではあるけれど、別の側面から見たら全く違うもの。
人格否定という、虐待。
あるいは子供の存在そのものの、否定となる。
生きる意味はナンなのかと、年頃になれば悩む。
自分の価値とはナンなのかと、考える。
生きていても良いのだろうかと、生きる気力を失っていく。
そうした些細なことに思えるものだとしても、子供からしたらとても重大なこと。
場合によっては一生を掛けても懺悔しきれないほどの、精神への損傷をあたえることもあるはず。
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【子の立場から】
そして、もしも子供の立場である自分が今、あなたの中にあるとしたら
誰かのせいにしてもどうにもならない。
自分が変わろうと思い、変わる努力をするしかない。
なんせ誰かのせいにしたところで、なにも変わらないのだから。
やらなかったことの、ツケ。
ツケがまわってきただけの、話し。
今更ツケをまわされたら人生が台無しだとか、ナニカのせいにする。ソノ考えは現実逃避。
今気が付いたなら、今からやれればそれでいいはず。
現実逃避は責任という名目すら逃避する。
やってきたことのツケがまわる。だから、やる。
やらないことは自分に対しての責任の放棄。
過去にがんばってきた自分に、ツバを吐いたらかわいそうだと思う。
だって責任の放棄は、一部の自己否定でもあるのだから。
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【親の立場から】
それから親としての立場。
手に触れた世界を飲み込んでしまう、我が子。
子供の、心を体を守ってあげるはずの親。
子供の本当を 知 り ま せ ん で し た じゃ済まされない時も在るはず。
我が子のことなど分かっていると豪語する、親。これほど危険な心理はないのでは、と思う。
子供は日々成長する。汚いものも見るし汚い気持ちにもなる。
その浅ましさを知ったように軽視する。浅く汲み取り、分かったように思い込む。
自分の主観と、本当の現実は違うもの。
それゆえ分かるけど分からない。それが物事を捉える時の視点なのではないのかと思う。
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【人の立場から】
最後に人としての言葉。
どんなだったとしても自分は自分でしかないもの。
原寸大でいい、と。
あなたはあなたのままでいい、と。
変われなかったとしても変わろうとする気持ちが在り続けるのなら、人として誇りに思ってよいと思う。
大切なのは人間の根元。
根元のことはなかなか表面からは見えないもの。
見てくれだけの価値在る美術品なんかよりも、魂を込めて作ったいびつな茶碗の方がずっとカッコいい。
誰かの目を気にして変える自分とは、お客に喜んでもらうためにする仕事のようなもの。
人というのは中身が大事だと、そう思う。
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