目に映る世界とは、心を心のままに見ているという事実が今を重ねている。
そこに権力とか地位とか名誉は関係なく
どんな位置に居ても善き人も悪き人もいる。
魂の中心に居る自分を見つめ続けていても
人は変わることが無いし
また、自分の中に存在する、主観という現実まがいのものが、
本当の現実ではないということを理解しなくてはいけない。
ゆえに遺伝から発せられた強靭(きょうじん)な欲を捨てないと
自分と、自分以外の人間の、境界線が混濁してしまうものだと、そう思う。
人は何も持たずに生まれ
何も持たずに死ぬもの。
自分以外の誰かという存在は
自分の心の中には存在するけれど
それだとしても
自分の中の心がそういう位置づけをしているだけで。
よって誰かを失うという表現は、本当は現実として相応しくない言葉なのかもしれないと思う。
それゆえ物質的なものも、地位や名誉なども、人としての自分には意味無きこと。
生きていくために働き考え、悩んだ末に、結果として現れたり関与したものでしかなく。
自分のものではあっても、自分ではないことなのかと。
またそれら(自分以外の誰か、またはなにかの存在)は、永続的なものではないので
いずれ手元を離れてしまうこともある。
だが人は遺伝から発せられた強靭(きょうじん)な欲があるから、
どうにかしよう(手元に残そうと)と考えたりもする。
でもそれは、はじめから自分ではないので
自然の摂理に身を任せ、適切で最善の処置をとることでしか対応はできない。
失う気持ちは心が決める。
失う気持ちはさみしさでもあり、失望や絶望ともなる。
失望や絶望をしたとしても
木枯らしが吹き冬が到来するのと同じで
自然の摂理にのっとりこの世は稼動しているだけ。それが現実。
その様(失望や絶望)は運が悪いとかそういうことではなく
ありのままの現実をありのままに受け止め
人として対応するだけのことで
それ以上のことは人の能力値を超えるものでしかないことでもあるし、
自分の心が強靭な欲に、ただただ惑わされているだけだとも言えたりする。
そうした時の、対応へ取り組んだささやかで純真な気持ちが、のちの運を決定していくもの。
気持ちとは心であり、心はあなたの現実を様々に映し出す鏡でしかない。
鏡で映し出した心の中の現実は、あなただけのものであり、
そのままの姿勢で本当の現実を見てしまえば、自分で掛けたまじないに、自分が取り込まれてしまう。
ゆえに現実はあなたの中には存在せず、あなたの周りに存在しているもの。
そういうものだと思う。
[3回]