白月光
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あなたは本当の自分で生きてますか?

依存と巷の依存と

依存。その言葉をここ数ヶ月はよく目にする。
特に本屋好きの私は目にする回数が多いかもしれない。

依存の原因ってさ

お母さんのお腹から出てくるのが早かったのか、
あるいは、他に原因があるのか。

まあ、そんなところだよね。


人は生まれると依存から入ると思うよ。
お母さんの愛を欲しがる。
お母さんからの栄養を欲しがる。
寝ても覚めてもお母さんみたいな。

でもさ

まずは母親への依存。
その心理がよく理解できる気がする。

依存して

依存して

依存して

その結果

満たされる。


満たされるから安心する。

だからこそ誰かへの愛を奉げられる。
自己愛も歪まなくなる。


人が人として生まれた最初の原型が依存なのだから
大人になったからといって依存の原型は変わらないと思うんだよね。

たださ、そうだとしてもね。
依存の仕方が、愛を吐き出せたり吸収できる環境に居るか居ないかによって
世で言う依存に該当してるのかどうかってだけでしょと思える。

つまり
何でも形(たとえば、依存という言葉)がないと不安になるという人間の心理を旨く使っているだけだよねって。
あ、世の中に溢れている情報がっていう意味。


つかさ

……痛くもないところを異物でほじったら
痛くなるに決まっているよと思うな。


まあ、依存という枠の括りに拘る時ってのは大抵が感情に支配されているわけだよね。
だとしたら、理想となる思考と、連動した感情の存在を見つける。

…まあ、いわゆる精神力というヤツですね。

それを考えたほうがずっと賢いよねと思うのです。

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人の感情の種

よく、親なら子供をかわいいと思わない人はいないということを聞く。

でも

世の中、そんなきれい事ばかりじゃないよねと思う。


いると思うよ。子供なんかどうとも思えない人。


けどさ
そういう人が特別なんじゃなくてね。

誰しもが持っている、それぞれの感情というのがあって。
この感情を仮に芽だとする。

それで
その感情には芽になった時点での可能性を幾通りも秘めた種が在る。
つまり、種は原始的な感情という意味にもなるんだけどね。
でね、その種になっている感情は誰でも共通した種類を持っているものだよと思う。

かなしくも嬉しくも
そんなもんなんだよねって、なんか思うんだよね。

まあ、子供を…。に関しての批判でも肯定でもなくて。
ただ、そういう人間も居るし。だとしても人の感情は共通しているよねというお話し。


というか、こういう記事を書いていると辿り着く気持ちが在るんだけど。

やっぱりさ、人生って自分がどうなりたいのかなんだよねぇ……って思うよ。ほんと。

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人の力を超越した位置に在るもの

時の狭間には人間の能力を超え超越した魔物が宿る場所がある。

道と道の切れ目に
目だけを恍惚と瞬かせ
ただの道になったみたいな顔して待ち構えているもの――。
結果。

しかし、それらは魔物となることもあれば、天使になることもあって。


そういう見えない力は

この世に幾らでもある。


それでもね

結果という

どうしようもない存在があったとしても

目標達成へ向け行動することしかできないのが、人。


摩訶不思議なものに踊らされ

本当に大切なことであるはずの「達成へ向けて歩く自分を」見失わないで欲しい。


結果。結果。結果。

世の中、確かに結果だよ。

だから誰もが努力する。

だとしても
結果とは人の力を超越した位置に在ることを忘れないで欲しい。

また
達成へ向けて歩く自分が
本当の現実なのだということを知って欲しい。

つまり
その瞬間だけが
自分自身という人間としての能力だけを最大限に発揮できるものだと思うのだ。

少なくても

ここにきたことで

忘れていた何かが在るのなら
思い出してもらえたらいいし。

理解していたとしたら
更なる自覚を持ち人生を歩いていって欲しいと思います。

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自由と引換えになるもの



仲間からはぐれ

何処へ向かうのか

仲間がいても
仲間がいなくても

独りで生きていける人もいる。

それはその人の人生なのだから自由だよと思う。

向かう先に目的という的があっても
的なんかなかったとしても
羽を広げ飛んでゆけるもの。

その先に何が待っていたとしても
何もなかったとしても
敗北だったとしても

そういうのが人生で。

希望を捨てる自由も在り

希望を持つ自由も在る。


そして
そんな人生という時の中

運命の切れ目で

ひょっこりと

顔を出すものがいる。



結果



という



人の力を超越した現実が置き去りにされている、ところ。




結果を知り

嘆くのも

喚くのも

自暴自棄になるも

泣きながら立つことも

泣きながら笑うのも

全てが自分自身に委ねられ
責任という重みで圧し掛かるけど、
どう表現するのかなんて
そんなのは
自分の成すがまま。


だから


ふと

人は何のために生きているのとか思ったりする人がいたりするわけで。


だとしても

最善と

最悪。

そのどちらかの生き方も存在しているんだよねと
そう思うよ。

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蒲公英



蒲公英。

この漢字をたんぽぽと読むのだと知ったのは何時の頃だろうか。

小さい頃、たんぽぽを摘んでよく遊んだ。

茎を引きちぎると白くて不透明な液体が出てくる。
その白いのを美味しいんだよと嘘をついて近所のN君に舐めさせたのを未だに覚えているのだ。しかもN君と言う名前までしっかりと。
確かそんなことをしたのは幼稚園くらいの頃だったかな。

悪戯っ子で怒られるようなことばかりしていた。

私の両親は自営業だったので、私は弟が生まれるまでは近所の年の近い子と遊ぶか、ひとりで遊ぶかだった。

近所の子と一緒になって悪戯をしたこともあるし……

今になって思うと

くそがき………

その言葉がぴったりです。はい。


そういやたんぽぽって
草むしりをしていると異様に根が深くて大変。
雑草ほど逞しいものはないかもしれない。

在る意味、逞しい雑草でいたいと思うのは私だけですかね。

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修練という存在

たとえば何かを習得するために練習をする。
この技ができないからと、練習する。
どうしたら、あの人のようにできるようになるのかとお手本になる物事、ビジョン、人物などを観察する。
たくさん観察したら自分も技の修練に励む。
だけれども思うようにできない。
そういうのを繰り返して、ある時、誰かに言われる。凄いねと。素晴らしいと。
そういわれても、自分ではまだまだだと思うだろう。

やがて

時が経過し

技の発表会があった。

お手本のようには無理だけど
自信はあった。

なぜなら
自信とは練習の反復により必然的に体得していくものだから
不安になる必要性はないのだ。

人の人生は
そんなことの繰り返しなんじゃないのかなと思う。

もしも、どうせできないと、練習中に言う者があれば
ただの練習不足なのだとまわりの人間は即座に理解をする。
ただ、当人はそうは思わず。自分は駄目なんだと嘆き悲しむ。

練習を蹴るも

修練に励むも

その人の問題であることには変わりが無い。

それだとしても
練習の結果が素直に反映されているのが人生というものなんじゃないのと感じでいます。


また
お手本を観察するということと連帯した上で、練習するということは、
謙虚な気持ち失くして存在しないもの。

どうせ駄目だからという言葉は
時として傲慢と高飛車という意味にも通じていたりするもの。

だからこそ目標設定を自分の能力値と平行に持ってくることは
ある種、失望という無意味なダメージを未然に防ぐことにもなるのだと思います。

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苦味という苦悩

人は苦悩ばかりかもしれない。

もしも、苦悩に味があったとしたら苦味なのかもしれない。
だから、きっと、それらは受け止める心の場所により味が違うんじゃないのかなって思う。

子供の頃は苦いものが
渋柿を食べたのと同じくらいに不味いものだったけど

大人になると舌のミライが磨り減って美味しいと感じるもの。

そういうのと同じで受け止める場所があって
その場所を何処に定めるかにより
美味いと思うものなのかなって。
そんなふうに思う。


人が本気で生きようとすればするほど
苦味という苦悩は直面してくるもので。
だからって、適当に生きていたらいたで、本当に美味しいものを美味しいと分からない。

美味しいものは美味しいと感じたいから、結局、本気で生きているわけで。

必然的に苦味という苦悩を体感しつつ生きていくことになる。

だとしても

その苦味という苦悩を好きになれなかったとしても

苦味の魅力を探すことも大切で。

他の人が美味しいという、その美味さを体感しないままで居るのは悔しいことだし

だからこそ理解しようとするもの。

結局、苦味という苦悩の存在なくして
旨みという幸せは体感できないものなんじゃないのかなと思います。

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お疲れさんな人へ

なんとなく、好い感じで心がほぐれます。
お疲れさんな人はどうぞ



http://www.youtube.com/watch?v=d8pr2AJeIbM

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プロフィール

HN:
福島の母 占い軒龍卑(haruka)
年齢:
55
性別:
女性
誕生日:
1969/11/01
職業:
占い師&マクラメ工芸士(講師もします)
趣味:
占い・読書(ほぼ仕事の本)・ガーデニング・その他諸々
軒龍卑の近況:
福島県福島市笹谷在住
現在は福島市笹谷にある、店舗【卯羅那石(うらないし)】にて鑑定をしています。店舗では占いの他にマクラメアクセサリー(ワークショップもあり)・柔道整復師によるリラクゼーション・インド刺繍リボン(業者卸有り)・天然石(業者卸有り)・雑貨などを取り扱っています。

なにげ修行は一生だという考えの持ち主です。
形の無いたったひとつの本当へ意識と脳が融合した状態で辿りつくことを数ある修行の中でも最低のラインと考え実践しています。

それから近年の変化ですが、霊界との関係性に変化があり、有効な知識を蓄え血肉にするため日々鍛錬しています。

私生活では極力霊界の事情を持ち込まないように、仮に持ち込んだ場合は速やか且つ敏速に対応しています。

それから私はかなりの方向音痴です。
なので出張へ行くと数回に1度の割で逆方向へ移動することが…。
しかも霊視中にも方向音痴が炸裂するので、東西南北ではなく時計表示&前後左右で方角を説明します。

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