現実感というのは、人にとってどのような位置に存在しているのだろう…。間違いなく、人それぞれなのだろうが、それだとしても考えてしまうことがある。
仮に、宗教へ入信するとしても、それは、入信した人間の自由だよね。これが法的に犯罪だというなら別だけど、そんな法律は無い。それに、入信という形式じゃなくても、ピンク色が好きだとか、絵を描く事が好きだとか、映画が好きとか、そんな様々な出来事に対しても同じだよね。そういった好きなものをするのが過去だとしても今だとしても、或いは、頭の中だけのシュミレーションだとしてもさ、好きな空間に浸る(精神を)ことを誰もが罰することは出来ない。侵害する権利も無いよね。
そう、他人がとやかく言う権利は、ハッキリ言ってない。当然、家族間でも無い。ただ、そういう互いの思想を話し合うのは、別によいと思う。
でもね、確かに自由といえば自由だけれど…。それだとしても、その自由を決行したことで、世の評価というものが下される。それは、近所かもしれないし、仲間かもしれないし、職場かもしれない、色んな想定が考えられるでしょ。
その評価の基準とは――、
明らかに「まとも」な基準である場合と、
何処からどう見ても、「不正や、間違い」である場合と、
まともな仮面を被った不正や間違いの場合と、
不正や間違いの仮面を被ったまともな場合と、
様々な観点からも捉えることができるわけだよね。
だとしてもさ、その評価は時代が違えば、反転する評価を告げられているかもしれない。そう、正しいことをしていても、悪党だと言われるのと一緒だ。また、悪党が、悟りを開いた素晴らしい人間であると褒め称えられているのと一緒だったりもする。
矛盾?そんな言葉ではおさまりきらない何かを自分の中で感じています。
ま、何がどうだったとしても、それらは思想と呼ばれ、人間のある側面からの考え。でもって、本当のことはひとつだけで、良い悪いという判断は、その本当には存在していないものだと思うのです。考えからの理詰めではなく、あるがままをそのまま受け入れ解釈するということは、現実感へと結びつくもの。
その現実感を知らずに、事の終結が起こった場合、多くの人の感情は大変に乱れます。収集がつかなくもなります。そして、場合によっては、微塵の希望も無い「失望」を体感することでしょう。
現実感…。今よりも先にあったり、時として離れていたり、ある時は逃避していたりと…。人の脳は、時として自分を騙してしまうことが実に多いのだと、そう感じます。
私は、常に本当のことを追及し探求していますが、それはどの辺りなのだろうと思うことがありますよ。きっと、今の実力分しか理解できない。当然、そんなことは分かるのだけど、それだとしても、今、出来うることをひたすら続けていくことでしか、理解することができないものが多いですよね…。
それだとしても、それは私の中での思想であって、誰のものでもないし、誰かに盗まれてしまうものでもないのです。だからこそ、こう生きていたいという願いが現実感と連動していくものだと思うし、また、その「連動した現実感の密度(信憑性)」は、願いを遂行するために(僅かな)行動を取ることで、現実感の度合いが変化してくるものだと思うのです。
結局は何がその人にとって大切だと感じているかなのでしょう。が、その自分の中で理解している信憑性が全てを動かしている(少なくとも、自分の運命をです)ものだと感じています。だとしても、どれだけ自分を理解しようと努めるか努めないか。或いは、それを考える必要性が無いのか。ただ、それだけのことなんですけどね。だからこそ、人の精神は自由なのだと思うのです。
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