人からどう見られるかということを気にするということは
社会的立場から見た自分の何かが壊れていくことや傷つけられることを連想するのかもしれない。
また
人からどう見られるのかというその事を意識して行動をしていないと、実際にダメージを感じるのかもしれない。
しかしそれは思い込んでいるというだけで、本当の現実の中ではそうはならない。
ただ、本当はそうはならないという事実を理解していないというだけ。
想像すること自体、人間の本能として当たり前のこと。
どう生きるかとか、どういう思想を持つかとか、そういうのも人間の自由なのだと思う。
そうした自由があったとしても、それでも本当のことという現実は存在しているというだけのこと。
たとえば環境汚染が世界的問題として取り上げられるようになって、かなりの年数がたつようにおもうのですが、この環境汚染は人間の進化の中に存在しているだけだと思うのです。
それこそ環境汚染であることの方が、地球からしたら自然なことなんじゃないかなって思うんですよね。
進化の過程で環境汚染という事実が生まれ。
またその事実は、人間が住み難くなるという理由で阻止しなくてはいけない状況ができた。
けれどもそれって、宇宙からしたらどってことないことなんだろうと思う。
地球は地球であり続けるだけのことで、人類が滅亡しようがどうなろうが、地球は変わらずに存在しているというだけのことなんじゃないのかと。
環境汚染を阻止しエコに励むことは、単なる人間のエゴなんじゃないのかと。
まあ、本当の事がなんだったとしても、環境汚染はこの地球で生きている限り問題視されるべき事柄でしかないということなのだと思う。
なんていえばいいのかな・・・
こうした環境汚染にしても、最初に書いた人からどう見られるかということにしても、本当のことって、様々な視点から見つめてみないと真実は浮き彫りにはならないんじゃないかなと思う。
人からどう見られているかということも一般常識的な意味では、ある程度必要なことでしかないというだけで。
それ以上気になるということは、環境汚染の話しと同じで、その事実とは異質な事柄が根底に沈んでいるはず。
また、問題というのは、根底に異質な事柄が潜んでいることが多いはずだと思います。
たとえばですが
『小鳥のような声』という比喩が入った文があり、
『小鳥』と『声』だけを自己の中で無理矢理結びつければ、
『小鳥の声』と理解してしまうかもしれません。
そういうたとえと、問題点を考察したり、現実を理解したりする思考回路は似ているように思います。
異質な事柄はさも同質であるかのような仮面を被り、この世に蔓延している。
当たり前だと思っている世の常識も自己の中の常識も、時代という枠の中でだけ生かされるものでしかない。
おそらく当たり前だと思っている常識の、パターンを介入していかなければ、今在る問題点も解決できないのではと思うのです。
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