人ってさあ
その人との歴史があれば絆が強靭だとかそうじゃないとか
そんなのは関係ないよねと思う。
友達
恋人
夫婦
家族
仕事仲間
趣味仲間
心の友
まあ、こういう枠としての形式をあげたらキリが無いように思える。
人が生きていく上で分かりやすいように
それぞれが自分勝手に取り決めているだけで
本当の部分には枠なんて無いし。
その本当の部分の上に
枠という形式を被せて
これで安心
みたいに思ってさ。
ほいでもって
私たちは○○(たとえば恋人)なのだから
こうするのが当然よね。
という言葉が出たりする。
確かに、その瞬間の当然は正当なのかもしれないし
まともなことなのかもしれないよね。
でもね
そのまともは
その瞬間に発生した事柄の方向性。
つまり位置という的を示しているだけで
事柄の成り立ちではないわけでしょ。
ということは
成り立ちに対し
位置という的をはめ込んだ時に
それは成り立ちとして成立しません
という結果がでることもある。
要は
誰かと小競り合いになったり口論になったりした時
自分の出した言葉
あるいは
相手の出した言葉
そういうのに対し
そんな時ばっかり教科書みたいなことを言わないでよ。
あなたの言うソレは正しいかもしれないけど“何かが”おかしいわ。
なんてね、そんな風に感じることがあったりする。
その時に感じた“何かが”というそのものが
あなたの感じた理不尽でしかなくて。
その理不尽とは
成り立ちの根底
または
成り立ちの過程
その中のどれかに
大きなミスや強制的に(相手が)書き換えてしまった屁理屈が存在していたりする。
まあ、(正しいことや教科書みたいなことを相手は言っているつもりでも)屁理屈の原点ということだよね。
結局、「(物事の成立なんて)なってないよ」ということになるでしょ。
まあ、だとしてもね。なんだったとしても、考え方のひとつの手段だと捉えてもらえたらいいよ。
というか
なんていうのかな…
気楽に生きるためには
本当のことを知っていた方が
生きやすくなることもあると思うんだよね。
お話のやりとりで
なんとなく流され騙されてしまう人って居ると思うけど、
次のお話の時に少しだけその屁理屈の原点を探りつつ
心と心のキャッチボールができたらいいよね。
正体を暴いてやるとか
そういう穏やかではない意味ではなく
仲良くするために(屁理屈の原点を探ることが)できるのが理想かもしれない。
ああ、けどさあ
時として
理想もへったくれも無いよって瞬間があるわ(笑
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