心の中に住んでいる様々な気持ちたち。
その気持ちの入っている箱の大きさは変わらない。
けれども
割合が瞬間々で変化する。
その変化していくさまは自分だけの自分の世界でしかなくて。
その世界を言葉にしようとして誰かに話しをしても
言葉に出した瞬間
何かが変化していく。
言葉が意味を変えて届くとしても
それでもいいから
誰かに聞いてもらいたい時とかあったりする。
そんな時は
届くことなど望んでなくて。
ただただ
心の中に在る苔のように張り付いたその色を吐き出したくて。
もう吐き出したら充分だよとか思ったりする。
吐き出すことと
伝わることは
当然ちがうし
異なったふたつなのだけど
それでもいいよと思えるのも不思議。
人は知らず知らずのうちに
心に鬼を飼う。
鬼のような顔じゃないと生きていけない人もいるし
鬼のようになりたくなくてもなってしまう人もいる。
でもね
その鬼は本物じゃないから
人工的な建造物と同じで作り物なんだよね。
それだとしても
そんなんでも
命をともすことがある。
命を宿した心の鬼は
独り歩きを始めるし
また暴走してしまうし
ちょっと自分独りじゃ手に負えなくなってしまうこともある。
魔法に掛かった心は
魔法をとかないと
夢から覚めないし
そのままなら、いつまでも夢を見続けているもの。
夢は見続けているから夢なわけで…。
もしもね
夢から覚める特効薬が在るとしたら
それは
心の矛盾を知ることでしかなくて。
すごく大変だし
すごく神経も磨り減るけど
夢から覚めたいならとても大切な名薬。
だけれども
夢を夢のまま覚まさせないで欲しいなら
そのままでもいいんだよと思うの。
だって
夢を見ていることが決して悪いわけじゃなくて
たくさんの気持ちの中の本当を正すことだけが
正解とかも無いし。
だからこそ
精神の自由を選ぶこと。
その選択権は誰のものでもなく私自身の権利でしかない。
苦しい中で生きていても
楽しい狭間で生きていても
選択の権利は誰のものでもなく自分だけのもの。
それを
我侭だとも言うし
自己主張ともいうし
自分の世界観を持っているともいう。
というか
そんな風に自分以外の誰かは形を作り決め付けたように
なにもかも分かったように言ってくる。
でもね
そんなのどうでもいいじゃんねと思うよ。
自分を自分の理想通りに
自分以外の人間の目に映すこと――。
それは演じる以外に無くて
もしくは
点を極めないとできなくて
だとしても
なんだとしても
自分は自分でいいんだと
どうせ何をしたって誰かしら何かは言うし。
だいたいさ
気にしなくなるには
耳を塞ぐか
その誰かを強制的に黙らせるか
そんなのしかないわけだし。
だったら
最初から堂々と出してしまえばいいよと思う。
なんていうかさ
こう、気にして疲れるだけ損するよっても思うんだよね。
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