人は自己の中での正が完成してしまい規則的にそのサイクルが回ってしまうことがある。
そして、その正のサイクルとは、本当のことへ付随している出来事のひとつであったりもする。
つまり本当のことそのものではなく、本当のことにより近いかもしれないけど、本当のことでは無いもの。という意味での「自己の中の正」。
ここ最近、これまで分析してきたことが、明確なシルエットで現れようとしている。まあ、当然、自分の中でのことだけどね。
そのシルエットとは、たとえば、AとBの通過点は酷似していたとしても、発信源と向かう矛先(もしくは向かう世界)が異なる。その異なりとは、酷似した出来事に惑わされたとしても、同じように事が動いたとしても、発信源と辿り着くはずの世界が異なるのだから、初めから、同じではない。という奇妙なシルエットを捉えている。
まあ、まだ、記事として書ききれていない自分が少しだけ悔しいかも。
なんていうか、3Dを見れる人と見えない人とがいて、でも、互いが浮き出ない平面の絵を捉えている。その捉えている様は酷似している出来事や境遇。
そして、見える人と見えない人は初めから異なる世界で生きていたし、異なる世界に進んでいるんだよね。ということ。それは仮に家族だとしても充分に在り得る事実な訳で。
つまりはね、平面の絵を互いが見ているから、一瞬、またはそれ以上の期間を「同じ境遇」という風に捉える。
けど、本当は既に違う。いいや、初めからクロスするだけのような。そんな意味なのだけど…。
うーん。うまく言えてないね。
それに本当はその先にも言いたいことがあって。
その先にというよりも、関連しているという方が近いようにも思えるのだけど…。
勢いとかスピード。それを引き出すのも殺すのも力をため込むのも、3Dの技から使えるのだとちょっとだけ発見した。
発見というよりは…正直言うと知っていたし実践もしていた。
ただね、言葉としての文章としての何かが私に欠けていて言えなかったのだけど、言えそうなんだよね。
文になりそうなんだよね。
…と、まあ、そんな感じなんだよ。
そのことに関わっているのは――、
人の底知れぬこわさ。
要は、そのこわさを引き出す側の人間が、どう表現するかにもよる。
なんていうか…。うーん。支離滅裂の文章でごめんなさいですね。
なんにせよ言葉というか…文になったら、懲りずにここ(ブログ)でアップしようと思っているのです。
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