ひとつ前の記事への追記的な記事となります。
心理学等に興味が無い人は、ごめんなさい。飛ばしてください。
EQの真義を捉えようとすると、人間性という総合判断とは異なってくるように思えます。
EQというある種の単体からの定義とでもいうか、そういう感じに思え、どこか消化不良とでもいうか。
つまり腕は肩からついているのに、腕を切り離して「腕とは」的な発想というか、分析するためには腕を切り離す事は必要なのかもしれないです。それに、それってふつうに思えるかもしれないけど、自然なものとは違いますよね。自然を理解するための分析された物事を、結果的に統合せずに単体で表現している。
まあ、それが医学の発展の原理ではあるのだろうけど・・・
切り離して分析すれば良いものばかりじゃないと思うんですよね。
日本の精神医学の遅れを感じます。
さてEQと言えば最近巷で話題になっている感情労働がありますが、感情労働の基礎的なマニュアルがおかしいと思う根本がさわりだけですけど分かった気がします。それはつまりタイトルにも書いていますが、武術を基本にしないからおかしいんだなと。まあ、しかし、武術限定ではない事をこの後に書いてます。
武術とは言っても昔々から変わらぬ精神の教えが存在していること限定という意味になりますけど。
(感情労働の事です→)ひとつの行動に対し感情が伴ってなかったり、行動とは真逆の感情を持ち、また、その状態が日々継続していた場合、末はウツとかになってしまうように思えます。
ですが、武術と書きましたけど、人として当たり前の精神というのが、(全てのものではないでしょうけど)武術にはあって、また、武術ではなくとも人として当たり前(当たり前=人間の精神に対してまともな、あるいは健全であると言える範囲)の精神を鍛錬する何者か(←結構いろいろあると思います)というものがあれば、EQの真義も生きてくるのかなと思ったんですよね。
逆に、精神の定義(更に言えば奥義的な?)が無ければEQの真義など何の役にも立たないでしょうと思えます。なんていうか、EQを頭だけで考えている人々の本や論文とかがやたら目立ちますけど・・・
うーん。情報社会ってこわいなって思いますよ。
詳しく書くほど時間に余裕が無いので、この程度にしか思っている事を書けないですけど、機会をみつけて、個人的に取り組みたいテーマだなと思っています。
記事に対し興味があるようでしたら、ちょっとEQや感情労働について知識を入れててもらえると、記事にした時に話がのみ込みやすいかなと思います。
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