物の存在はあるけれど、それでも永遠の所有物など存在しないので、これが無いと困るという状態をつくらない。
それは私の経験からの考え。
また物にしても何にしても、今は自分のものだとしても、そもそも自分のものなどないのだと思う。自分のものといえるのは、自分自身の気持ちだけか?と思ったりもする。
形在るものは何れ無くなってゆくもの。
大切な相手にしても、そうだったりする。
また、人はもともと生まれたらいつかは死を迎える。居なくなる。
この場合の多くは、嘆き悲しむという意味が当てはまる、かもしれない。
死はとても自然なこと。
死を表現するための言葉で、失うという言葉を使用することがあるけれど。
大切な人を失う(死という意味で)、このことについて書きたいと思う。
人は物ばかりか、自分以外の人間を所持することはできず、ゆえにもともと持って(所持して)いないものを失うことはありえない。
仮にその人と共有したと思っている過去の出来事でさえ、現実ではない。
なぜなら現実とは今現れていることだけを現実というのだから、思っているだけのこと、過去、未来は、現実ではないわけで。
つまり思ったことと現実は違うし。
過去は事実であっても、現実ではないし。
未来など尚更、存在していないのだから現実ではないということ。
結局、大切な人を 失 っ た という感覚から発展した死に対する悲しみとは、思いから作られている自己の中の出来事(気持ち)でしかないし、 現 実 的 に 死 者 の 存 在 を 無 視 していることでもある、と。
どう転んでも、死は自然の摂理でしかない。
現実の死という自然の摂理を無視すれば、精神は、必然的に現実を逃避する。
だからといって何も感じないのが正しいとかそういう意味ではなくて。
死と心の在り方とはそもそも別々の事柄であり、ただ、心の在り方のどの部分で死を受け入れるのかということをいいたかっただけ。
心の中の思い出や記憶。現実ではないのに現実として捉えてしまうこと。そういうことは多々あるのかもしれないけれど、それでも今起きている現実を正しく捉えようとする気持ちは大切かなと、そんな風に思う。
ゆえに死を受け入れた相手を目の前にして、嘆き悲しむという自己の中の 思 い (死者への無慈悲) を現すのではなく。
目の前で起きていることがどういうことであり、死を受け入れたその相手に対し今何を思うのかが大切であり、それが現実なのかなと感じました。
また
そういう気持ちが慈愛なのか、と……。
本当の優しさとは現実を受け入れた者にしか表現できないのでは、と…。
だからこそ
大切な人を失ったという感覚からから、結果的に死者の存在を無視できてしまう人間でありたくは無いと、自分で自分へ誓います。
[0回]