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昨夜は疲れていつもより早目に睡眠をとりました。
疲れてしまうと頭が動かないし、体と心のバランスが対極の位置になってしまうのだという事を改めて体感。
滅多にそこまではならない私。やはり休暇は大切ですね。
こういうサインに気が付かないまま精神と肉体を酷使しつづけると、幻の現実を在りのままの現実だと錯覚してしまうものなのかもしれないと思ったりもしました。
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自分が見ている家族の誰か。
この人がこうだというのは良く分かっている。
その得意だと思っているエリアは大抵が弱点でしかない。
なぜならこういう人という自分の中の常識はパターン化してしまい、在る意味、それなりの眼鏡が自分と一体となる。
その分かっていると思っている人間の本当の姿を次々に書き換えてしまう作用が在る(それなりの眼鏡が自分と一体した自分自身が、本当のことを書き換えてしまう)。
それはほんの些細な事で気が付けるようなこと。
たとえば赤ちゃんが居て
赤ちゃんが母乳を飲まない。
母乳を飲まないという原因は無数に考えられるにも関わらず、家系的に食が細いということに“当て嵌めたり”することもあると思う。
その場合原因ではなく過程を、原因として把握している場合も在るかと。
仮に赤ちゃんの食の細さに関係しているものの中に、家系的な遺伝もあったとする。
ならば尚更、その奥に原因があるものだと思う。たとえば腸の働きの悪さ、など。
また腸の働きの悪さの更に奥に貧血などが潜んでいる事もある。
あるいは免疫に関わる神経系統の病気など。
まあ、こんな感じで思い込みを無理矢理に当て嵌めていくことを自分の中の常識と呼べるのではないのかと、私は思っている。
またこういうこともある。
自分の子を対象にして「この子は私に似て太ってて(笑)」
などと母親が誰かへ言ったとします。
冗談ならまだしもかなり本気で自虐ネタとして言った。
すなわち遺伝で在ると。
だけれどもこれは違う。
病気や薬でというなら話しは違うけれど、たんにふつうの生活をしてて太ったのだとしたら
小学校までは親の責任。
食事の管理の悪さにより子供が太ってしまったということでしかないと、そう思う。
結局、無数に存在している原因を気軽にまたは軽率な気持ちで、あるいは気分によって、決めてしまう。いや、無理矢理に当て嵌めてしまう。まるで嵌まらないパズルのピースを、無理矢理に嵌めこむのと似ている。
故に保留という形式での原因の候補は必要なんじゃないのかと思う。
節穴の目。最後は自分が辛くなるもの。
[2回]