マイナス思考という言葉はよく耳にします。
やりたいけど、やったとしてもダメかもしれないし。
この言葉は俗に言うマイナス思考でもあるかと。
すなわちヤルと言えない、言い切れないということでしかない。
結局は本気じゃないからだとか、そうした視点からの考えをちょっとリセット。
仮に受験生がいて
「絶対にこの大学に入る」
「この大学に入れたらいいな」
このふたつには少なくともふた通りの人生が存在する。
前者の意味在る数年間と、後者の意味無き数年間。
そこで意味無き数年間となった後者を、分析。
入りたい
↓
勉強が大変
↓
今の学力では無理かも
↓
入れたら良いな(希望または希望的観測)
※希望:入るではなく、入りたい、入れたら良いな。
※希望的観測:こうなったらいいなということを都合良く当て嵌めてみること。
という目的無きものでしかなくなってしまう。
目的が無いという事は、目的に対しての結果は出ない。
出るのは目的に関係なく行動した事への結果がでる。
このマイナス思考と呼ばれている言葉たちって、大抵がやる前に自分で結果をだしているんじゃないのかなって思うんですがどうでしょうか。
マイナス思考というよりは、目的が無くてただの希望なのだから曖昧なものへは曖昧な結果がでるはず。
ということは、それって自分の気持ちではないということにもなる。いわゆる不純物が多すぎる状態とでも言うか。
つまるところ本心は他に存在しているのだと言えるかと…。
だって希望と目的は違うわけで。
ちなみに
入 り た い となぜ言葉が出るのかを追求していけば分かるかと。
入 る のではなく、入 り た い と言葉を出す時に引っかかっている物事。入れないかもしれないからというだけで、入ると言い切れていない場合もあるんじゃないかと思う。
入れないかもしれないというソレは自分の中で在りもしない結果を言っているというだけで、実際の本心ではないという事もあると思う。
なにがあってもヤルと決める事を意思ともいう。しかし意思の前に気持ちが本気かどうかということだけなんじゃないのとも考える。なにも本気じゃないのがいけないということじゃなくて、それが今の本気の度合いなんじゃないのかという意味での話し。すなわち入りたいとか、入れたら良いなというのは、曖昧な気持ちを無視して(できないかもしれないと)言い訳をしているような、そんな状態になっていることもあるかなと。
また別の視点からいけば気持ちが固まっていないと、言える事もある。
目的と、目的だと思い込んでいることとは、似ているように感じるけど大きな違いが在る。結果的に対極な意味にしかならないものではないのかと。
世の中では、目的だと思い込んでいるもの、つまり目的では無いものを目的と称しをマイナス思考という括りで簡単に済ませているようにも思えたりするのですが…。
死についてのテーマ、そして目的についてのテーマ。今の私の課題です。
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