白月光
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あなたは本当の自分で生きてますか?

違いがありすぎると下に見えるという、事実



http://www.youtube.com/watch?v=EpezRVnMukY

太極拳の動画です。

ここに出ている老子らしき人が、現実的に凄い人かどうかはわからないです。
けれども個人的には凄い人だと思うんです。

自分よりも上過ぎると、たとえ我が子でもそれ以外の誰かだとしても、たいしたことのないように見えたりする。いわゆる自分より下の人間だと思えたりするわけで。ベテランという名声にアグラをかいているような気持ちを指すとでもいうべきか。

実際、老子らしき人物の動作はたいして凄いことをしているように見えない。

だからこそ現実に潜む、心の目の節穴はこんな他愛も無いところから発生するもの。

自分の中の常識とは案外現実と掛け離れていたりするものかと思う。

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愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ (修正あり)


愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ という言葉があるけれど

ここでいうところの歴史とは、結果的には、念には念をいれてという用心深さなのかなと思う。

固定観念が先にたち思考をすすめると、この場合の経験という部類に値するのではと思う。



すなわち歴史とは本当のことでしかないし、経験から学ぶとは、思ったことという主観(またはたんなる通過したという意味)でしかなくなるのではないかと。

結局、経験は歴史という本当のことから学んでいるとは言えない。

またこの場合の経験は(本当のことを学んでいるものではないので)学ぶという事自体がはじめから違っているわけで。つまるところ同じ経験をしても血肉にもならない人と、血肉どころか筋肉にまでしてしまう人との違いのようなものだし、筋肉にまでした人間は経験から学ぶという事実など存在しないのではないかと。あるいは経験から学んだと思い込んでいるだけとか。

本当のことを学ぶということは分類と、分類の体制、各々の単体と全体の性質などを把握しない限り理解できないものだと思うのです。

そしてこれらができてはじめて、経験というナニカが活かされるチャンスがくるかもしれない!と、そうそう都合良くはならないか、と…。それもやはり歴史というツワモノの法則を理解しているからこそ、経験から生まれる勘のようなものがでてくる。
しかしこの場合の勘とは、あてにしてはいけないもの。

だって

ただ思ったこと、たんに閃いたこと、でしかないのですから。これって下手すればギャンブル的発想にも相通じるものですよね。
まあ、この辺りが経験と歴史の発想の違いになるか、と。

もしもその勘を現実と結びつけ、今を変えようというならば短絡的に実践するのではなく、現実という本当のことすなわち歴史的な(事実に基づいた)発想から も 思考しなくてはいけない。

念のために「この勘(閃き)」でいいのかどうかという慎重さや用心深さという、意味で。



最終的に物事を本当の意味で学ぶ時には、様々な分野からの視点が必要だと思う。

それはまるでベテランではなく本物といわれる刑事の、仕事への取り組み方と酷似していると思うことがあります。あるいは名医と呼ばれる医者ではなく神の手を持つといわれる外科医の、仕事への取り組み方とかですかね。


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デンデラ --佐藤 友哉

ここ暫らくの間、地味に読みつづけている小説「デンデラ」。いわゆる姥捨て山に捨てられたあとに続く、老婆たちの物語です。
小説の内容はどうあれ、こうした集団や個人が実在していたとしてもおかしくはないと思いました。


なんでも映画にもなるそうですね。



映画はさておき、小説のお話しで主役(?)の斎藤カユ。そのカユについつい仕事的な意見をいいたくなってしまう(苦笑)

今こうやっているし、こう思っているみたいだけど、ほんとうはこうじゃないの?

とか、ね(笑)



なんていうか読んでてもどかしいのだけど、環境が変わることで変化していく老婆達の(気持ちの上での)体制があって。それって女の友情ではなく…

……うーん。

ネタバレになりそうでなんとなく書けないですね(苦笑)
しいていえば、気持ちの変化が起こる要因になっているさらにその奥一枚、というソノ視点で私は読んでいます。ということくらいしか言えないですね。

読む視点によっては評価もさまざまでしょうねえ。すなわち主人公のカユの気持ちや考えのソレと、どこか共通しているとでもいうか(ちなみに意味は深いです)。


まあ、小説はもうひと息で読みきるところ。
映画と小説とでは内容がかなり違うそうですよ。


気になる人は息抜きに読んでみたらどうでしょう。(・ω・。*)



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知ろうとする気持ちの更にひとつ奥へ

知りたいナニカが分からない。

なぜか

知るということの実態が何だったとしても、最後は本当のことにしか行き当たらないもの。




唯一無二の存在。




本当のこと。





知ろうということの究極は真実を知ることでしかない。





ひとつの本当を知るためには
ひとつに関わっている連鎖した何かも理解する必要がある。

廃墟に咲き乱れた花だけを見てナニカを感じることと
廃墟も含めて咲き乱れている花を見てナニカを感じるのとでは違うというソレと同じこと。



1を知り10を知るという特技があったとしても

知ろうとする思いが本物であれば用心をすること。



ナニカを知るとは、この世の本当のひとつを知ることでもあるのだから
慌てて結果へと導かない方がよいものだと、そう思う。
全体を知らずして、ひとつを見てこうだと決め付けることはただのこじつけでしかないわけで。


結局、全体を知るにはひとつに対し関わっているそれらをひとつずつ理解していくしかないということ。
それも一方方向という固定観念からではなく、見渡すことをしなくてはいけないもの。



たったひとつを知る。心が無ければ気持ちが無ければ知ることはできないものだと、私は思う。



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知ろうという気持ち

ナニカを知ろうとした時、普段は気にもしない言葉に心の耳を傾けるもの。
そけでも早とちりや勘違いが起きることもある。

なぜそうなるのか

脳のつくりや遺伝など様々な要因があったとしても
それでも私は思う。
結局はどれだけ本気で知ろうとしたかという、たったそれだけのことだと。

本気で知ろうとすると
気付かぬうちに雑念が抹消される。
普段そうした習慣がない人の場合、知ろうとしているその瞬間というのが異常な集中力になるというだけで。

聞こうとする気持ち

知ろうとする気持ち

それらが本物であれば、個人差による限界はあるものの、読解力を正しい意味で一瞬だけ完璧にする。


ただ、人は思うという主観があるから
主観をベースに聞いてしまうと矛先が結果的におかしくなる。



それだとしても言える。本当を知ること、それはいかに本気かという気持ちだけなのだと。



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僕が一番欲しかったもの/槇原敬之



http://www.youtube.com/watch?v=3LEgP4wKD3k&feature=player_embedded



死という現実に向かい時は進む。
その現実を否定しナニカをしようとするから辛くなる。

永遠に続く何かなどはなくて。

この地球だっていつかは滅びてしまう。
案外滅びる前に人類が滅亡するかもしれないし。
なんだったとしても永遠に変わらないものはない。

人の思いも

誰かの夢も

今という瞬間でしか生きていないもので。

時がたち、過去の思いがどうだったとしても
今というこの瞬間の思いが大切。




人は過去でも未来でもなく今という現実に存在しているのだから
今というこの瞬間でしか生きていないわけで。




だからこそ失っていく時と共に
今この瞬間といういう一瞬々が
なによりも大切。

若いとか

中年だとか

老人だとか

そんなことはどうでもよくて

人は変わろうと思えば死を迎え入れるその瞬間まで
変わり続けるものだということを私は知っている。

それだから

ナニカに対する思いは
あなたの中だけのことだけど

たったひとつだけの行動が人生を大きく変えてしまうことがあるもの。
思いをどう表現するかにより、あなたは変わっていけるもの。

なぜなら思いとは主観だから現実じゃないけれど、行動だけが現実を変えることができるわけで(すなわち思うことが現実なのではなく、行動が現実)。





思いを現実にするには、大切なことが何者なのかをちゃんと心でわかっていればそれでいいはず。





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行動について単純な話し

やろうと思ったことと、実際にやったこと。
それは人を殺そうと思うことと、実際に殺したということくらい違いがある。

やった目的が結果的にまともであれば、良い意味で人生が激変することもある。
やった目的が結果的に反社会的であれば、最悪は法に触れる。
すなわち、その場合のどう思っているかという、自分の気持ちは現実の前では意味が無いもの。

案外人生というものは、ひとつの行動によって簡単に変わってしまうもの。


ただその行動が目的を達成した瞬間、その行動はこういうものという、現実的な結果がでるというだけのこと。

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今の瞬間と繋がっている

今というこの瞬間を手放したら未来に存在している手放したことと関与した何かは、消える。あるいは悪い意味での作用が残る。

優しい人ほどがまんするけれど

そのがまんは本当に未来を考えてのがまんなのだろうか。
問題とは単体で存続しているかのように思えるけれど、問題と関与した繋がりのある、関係が、実際は存在している。

だからこそ、そうした関与した事柄とのバランスや打開策が必要だったりする。

でも、それは仕方の無いこと。と思ったとしても、本当にそうなのか思案することは大切。

本当はイヤなのに理解したフリして引き受けて。それって結局、もっと大切なものを失うことになってしまったりする。

あなたが好きだから我慢した。あなたの気持ちを考えたから、イヤだったけれど我慢した。
全てじゃないけれど、そうした問題は未来の輝きを消失したりする。
なぜならあなたの気持ちを考えて我慢したとしたら、あなた、というその誰かの気持ちを未来的に失うこともあるもので……。



信念。それは自分の意思を闇雲に信じるというだけのことではないはず。


大切だという今のナニカを理解しているからこそ、未来へ繋ぐ(信念の矛先となる)的は、重用だと思う。




今すぐ先の未来という意味ではなく、今というこの瞬間を見逃した代償とは高くつくものだと思うのです。





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プロフィール

HN:
福島の母 占い軒龍卑(haruka)
年齢:
55
性別:
女性
誕生日:
1969/11/01
職業:
占い師&マクラメ工芸士(講師もします)
趣味:
占い・読書(ほぼ仕事の本)・ガーデニング・その他諸々
軒龍卑の近況:
福島県福島市笹谷在住
現在は福島市笹谷にある、店舗【卯羅那石(うらないし)】にて鑑定をしています。店舗では占いの他にマクラメアクセサリー(ワークショップもあり)・柔道整復師によるリラクゼーション・インド刺繍リボン(業者卸有り)・天然石(業者卸有り)・雑貨などを取り扱っています。

なにげ修行は一生だという考えの持ち主です。
形の無いたったひとつの本当へ意識と脳が融合した状態で辿りつくことを数ある修行の中でも最低のラインと考え実践しています。

それから近年の変化ですが、霊界との関係性に変化があり、有効な知識を蓄え血肉にするため日々鍛錬しています。

私生活では極力霊界の事情を持ち込まないように、仮に持ち込んだ場合は速やか且つ敏速に対応しています。

それから私はかなりの方向音痴です。
なので出張へ行くと数回に1度の割で逆方向へ移動することが…。
しかも霊視中にも方向音痴が炸裂するので、東西南北ではなく時計表示&前後左右で方角を説明します。

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