愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ という言葉があるけれど
ここでいうところの歴史とは、結果的には、念には念をいれてという用心深さなのかなと思う。
固定観念が先にたち思考をすすめると、この場合の経験という部類に値するのではと思う。
すなわち歴史とは本当のことでしかないし、経験から学ぶとは、思ったことという主観(またはたんなる通過したという意味)でしかなくなるのではないかと。
結局、経験は歴史という本当のことから学んでいるとは言えない。
またこの場合の経験は(本当のことを学んでいるものではないので)学ぶという事自体がはじめから違っているわけで。つまるところ同じ経験をしても血肉にもならない人と、血肉どころか筋肉にまでしてしまう人との違いのようなものだし、筋肉にまでした人間は経験から学ぶという事実など存在しないのではないかと。あるいは経験から学んだと思い込んでいるだけとか。
本当のことを学ぶということは分類と、分類の体制、各々の単体と全体の性質などを把握しない限り理解できないものだと思うのです。
そしてこれらができてはじめて、経験というナニカが活かされるチャンスがくるかもしれない!と、そうそう都合良くはならないか、と…。それもやはり歴史というツワモノの法則を理解しているからこそ、経験から生まれる勘のようなものがでてくる。
しかしこの場合の勘とは、あてにしてはいけないもの。
だって
ただ思ったこと、たんに閃いたこと、でしかないのですから。これって下手すればギャンブル的発想にも相通じるものですよね。
まあ、この辺りが経験と歴史の発想の違いになるか、と。
もしもその勘を現実と結びつけ、今を変えようというならば短絡的に実践するのではなく、現実という本当のことすなわち歴史的な(事実に基づいた)発想から も 思考しなくてはいけない。
念のために「この勘(閃き)」でいいのかどうかという慎重さや用心深さという、意味で。
最終的に物事を本当の意味で学ぶ時には、様々な分野からの視点が必要だと思う。
それはまるでベテランではなく本物といわれる刑事の、仕事への取り組み方と酷似していると思うことがあります。あるいは名医と呼ばれる医者ではなく神の手を持つといわれる外科医の、仕事への取り組み方とかですかね。
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