人が何かに対しやる気が起こるためには、その、何か事態を達成した時に嬉しいことにならなくてはいけない。
うれしいことという結果を意識(予測)できないと、人のやる気の割合は少なくなってしまうもの。
こういう気持ちは普段の生活の中でも常に癒着した事柄だと思う。
たとえばいかに簡単に料理をしようかと、手抜きばかりを考えている私だとしても
おいしいと褒められれば、次はもっとおいしい料理を作ろうと思う。
これが手が込んだ料理を作るとなると、1日の中での料理に掛ける時間の割合が大幅に変わってしまうし、また私の場合は面倒くさがりなのでとても苦痛にもなる。
結局、簡単で、あるもので、おいしくてというその部分は譲れない。だけれどもその中でいかにおいしいものを作るかというやる気によって料理の腕が日々上達しているのかもしれない。
ただ、手の込んだものをいとも簡単に作ってしまう人を見ると、素直に尊敬する。
そしてその手の込んだものをどうやったら簡単に作れるかというポイントで、私は頭を使う。
それもこれも、おいしい。という家族の言葉があるからやる気になっているわけで。
なんていうか…
たとえばだけど
だんなさんが、或いは子供が、こうしてくれない。という問題があったとしたら
人というのはどんなに神経質な人だとしても、とても単純な脳のポイントが人それぞれ持っている。
そのツボを突いた言葉で、やる気を引き出して上げれれば今よりもちょっと自分が楽になる。
だんなさんや子供が変わるという意味ではなく、なぜ、今よりもちょっと自分が楽になると書いたのかというと
だんなさんに問題があるとしても、その問題を意識しているのは自分でしょう。
だんなさんがその問題を意識して改善しようとしているなら、問題は問題ではないのだから、問題の存在自体がないということになる。
すなわち自分の中の問題がちょっと楽になれば、それで良しとなる。
ちょっとを繰り返していくことが、結果的に改善ともなる。
結局は相手をよくよく観察して新たなツボを見つけるしかないのだと思う。
なぜなら相手のツボがなんなのか、それが分かっていたら今の問題は発生していないということになるのだから(分かっていたら今の問題は浮上するはずがないので)。
観察結果を集計し、ふるいにかける。ふるいから漏れたものに案外、重要な鍵があったりもするもの。
なぜかというと、いつもの、今までの、視点で物事を読もうとしているから。習慣。
自己の中の習慣は、自分的にはとても自然。だから気が付きづらい。
自分に騙されず総合的にツボをあぶり出し、ここだと思えたポイントで言葉を掛ける。
それは自分もちょっとだけ楽になっていくという現実と、自分の意識や自分らしさを成長させるという結果をもたらすもの。
全ては自分のために。
自分のためにしたことは周りを今よりも幸せにしていくもの。
変わるのは相手だけではなく、変わらせるようにするために変わっていく自分がいないと、相手も状況も変わらないもの。
自分磨き。素敵なことだと思います。
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