昨日、とあることでとある相手と話しをした。
「悪口をいわない人はいないですよ」と、その相手。
そこで私は
「多くの人間が悪口をいうということではなく?」と、問い。
相手は…「悪口をいわない人間は 絶 対 に いません。」と、断言。
なので、それは間違っているし、実際に悪口をいわない人間も存在するといいました。
存在する、と私がいったにも関わらず、(相手は)それはあなたが 思 っ て い る こ と ですよね、と……。
「存在する と 思 う 」という主観ではなく、「存在する」という事実をいったのに。
まあ、その続きの話しはどうあれ
悪口に対する考えには…
■ちょっとくらいの悪口なら、関係性を保つためには必要。
■悪口をいわない人間は気持ち悪い。または偽善者。
■悪口をいっている自分が嫌いなのでいわない。
■自分が悪口をいっているのを本人が聞いたら嫌なので、いわないようにしている。またはいわない。
など、その他にもいろいろな考えや思いがあると思いますが、私自身の考えはこうです。悪口をいうということは、最悪は悪口の対象となった人間に聞こえてしまうことがあります。
なので本人を目の前にして言えないことはいいません。また事実だけを話すようにしています。
自分が思ったことという、主観ではなく。事実を。
(悪口という思っただけのことで、相手を決め付けること自体間違っていると考えているので、事実だけをいいます)
もし悪口として言わなきゃいけない状況があるとしたら、本人を目の前にしてぶちまけることでしょう。というか実際にそうしています。
なぜなら
陰 で 悪口をいう時の人の気持ちは、醜く卑しい。
それでも醜く卑しい気持ちを人間なら誰でも所持しています。
だとしても
自分が自分の中に存在した上で、世界が存在しているのか、
自分が自分の外に存在した上で、世界が存在しているのか。
自分の心がどの位置で生きているかにより、悪口を平気でいえる世界で生きるのか、悪口とは無縁の世界で生きるのかという、現実に異なりがでます。
侮蔑、差別、蔑(さげす)み、優越感。
そうした感情から悪口をいう。精神を傷つけるための、武器。
すなわち自分の中に自分が存在せず、自分の外に自分が存在しているからこそ陰湿な思いが発生する。いわゆる劣等感から、卑劣な感情が起こる。自分が無い=自信が無いなど。
それらを突き詰めていくと、たとえばどんな人でも許せる人。= 聖人であれば悪口はいわないだろうと思うかもしれない。だがそれは、ある種の宗教的観念かと。
悪口をいわない心の境地って、果たしてあるのだろうか……。
私は境地という結果論などではなく
私の場合のその人を目の前にして言えないことは、いわない、
という 自 分 の 気 持 ち でしかないと思う。
いわゆる意思となっていくであろう気持ちのこと。人間性。
相手を目の前にしていった場合を想定し、自分が後悔することはいわない。
□ 偽善的な意味ではなく、悪口を言ったのを聞いてしまったら、相手がどんなに傷つきどれだけ不信感を抱くか(そうなる覚悟はできているのか)。
□ 同時に、悪口を聞いてしまった相手を目の前にした時の自分がいかに卑劣で醜く愚かだと感じる、ソノ自分を許せるのか。
という
実 際 に 起 こ る であろう 現 実 と
自 己 の 中 で 起 き る であろう 事 実 を
まずはよくよく考える。
当然、悪口をいわないとしても、思っただけも意味は一緒。私の中では思うことも、反則。ルール違反。
そして自問自答する、そんなヤツになって良いのか?と。
ゆえに、まともな自分の気持ちを選び自分の気持ちの選択を変える。気持ちを込め、自己の中の勇者を選ぶ。
それはつまり
勇者側の気持ちである自分が何処へ向かって道が流れているのかという論理にそって、醜く卑しい気持ちの自分を訂正してゆく。のちに醜く卑しい自分は敗北する。
(勇者側の気持ちである自分=以下の文章に出てくる、自分が“なにをしたいのか”という気持ちを、代返してくれる自分のこと)
また、どうせいうなら本人にいう。こそこそとうごめく下劣な人間に成り下がるくらいなら、本人を目の前にして嫌われるのを覚悟の上で言うべきだと考えている。
すなわち最悪の結果を受け入れる覚悟が無いのなら、しない。
また覚悟が無いのに、怒りが収まらないとか、悪口を心の中でいつまでも反映している場合というのは、自分の中でこじつけという矛盾点が存在しています。
(あくまでも自分自身へ対する考えです)
結局、悪口にしても、自分がなにをしたいのかという、自分の 気 持 ち が 生 き 方 を 決 め て い る わけで。
その結果、醜く卑劣な気持ちを持って平気で人の悪口をいう、下劣な人間として生きているのか、それ以外のどこかで生きているのか、という事実と現実が在るだけだと思う。
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