幸福の条件がどんな映画なのか観てはいないから分からないが、後に自分の本心を知り、自分の決断の動機を歪めてしまうこと。その事実を受け取る人によって は嘘、勘違い、浅はか、自分勝手などというところであり、だがしかし、その実態はただの正当化でしかないのだろうと自分の中で考えがまとまった。
何年も前から思っていたことがある。
案外この内容は、言葉を代えてブログ上で書いたことがあるかもしれない。
本当のことというのは点でしかない、のだと。
仮にひとつの病名があったとする。
その病名を判断するためのどこかの医者の分析は、点を起点にした球体の何処かの経路を辿り、点という病名に達していく。
カウンセラーは、カウンセラーで、医者とは異なる球体の経路を辿り、点へと達する。
霊感は、医者とカウンセラーとも異なる球体の経路を辿り、点へと達する。
また病名ではなく、愛についてという思想があったとしても同じことがいえる。
哲学者であれ、思想家であれ、霊能者であれ、
点という本当のことはひとつだけ。
すなわち点に向かうようにして、主観や、見解という様々な線が放射状に散らばっている。
その線のどこを通ったとしても点へと辿り着くもの。
まあ、こんなようなことが常々脳内で立体化した状態となり、私の中で存在している。
物事を決断したり判断したりする、ちょっとした瞬間に立体化した図形が姿を現す。
辿ろうとしている線は、確実な点へと繋がっているものかどうかを、まずは考えるようにしている。
日常での決断や判断は思っている以上に多いもので。
何気ない動作ひとつにしても考えている。いわゆる習慣化された思考。
何気ない動作に対し、なぜそこまでと思うかもしれないけど
考えないことで気が付かないままに大切な何者かの心を闇へと葬ること。
そして自分自身の愚かさに後悔すること。
そっちの方が辛いと考えるから。
誤解の無いように書いておくけど
大切なのは考える前に存在している、自分の中での温度ある気持ち。
気持ちがあって初めて考えが現れるもの。
気持ちの無いままの決断とは、目的が定まらないままの意味無き行動でしかないもの。
温度ある気持ちと、考えることとは
反りの合わない者同士が、ひとつの目的へ向かい協力し合いながら行動する。
気持ちと考えが噛み合うこととは、そういうものでしかないのだと思うのです。
社会で生きる自分の姿勢とは、心の中での協調性がそのままに現れるものでしかないと感じています。
自分自身の中での本当の協調性は、気持ちと、考えをひとつの目的に導くことであり、それは結果的に気持ちと考えの統合という形をとるわけで。
よって自己の中で気持ちと考えをひとつの目的へ正しく誘導ができれば、社会的に今よりも溶け込め楽になっていく可能性があるのではと思います。
温度ある気持ちと、考え。
その反りの合わない者同士が、ひとつの目的へ向かい協力し合いながら行動する。
とても大切なこと。
意味無きプライドや拘りを手放し、自分らしい人生を……。
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