乙一(おついち)という作家がいる。数ヶ月前にその作家の本を手に取り、初めて存在を知ったの。
彼は17歳で作家デビューした鬼才と呼ばれているらしい。
私が彼の本に興味を持ったのは17歳で作家デビューしたその鬼才に惹かれたからではなくて、
彼の中の書いている世界が
「書いているというよりも描いている」
そういうものに感じたから
だから
自然に興味をもったの。
なんていうか…
乙一の全ての書籍を読もうとは思わないし、この本はいいよね。という私なりの判断がある。
たまにどの小説を読んでいても全部の書籍を読んでみたいと思わせる作家もいるけど、それは滅多に無い。
だから彼の作品が私の中での特別のヒットではないのだけれど、
だとしてもあの描かれている世界は
遠くに置いてきてしまった心の中の大切な何か。
その何かと巡りあわせてくれるものがある。
こうさ、ホッとする感じや安心する感覚が好きで読んでいる。
話しはちょっと飛ぶけれど
こういう心の空間を自分の意思には関係なく自然に根元から変えてくれるアイティムとは、誰しも必要だよねって思える。
でもさ
こういうアイティムは
誰だって持っているとは限らないよね。
持っていないと何が起こるのかは容易に想像はつく。
だって誰だってストレスは溜まるわけでしょ。
だけれども
その溜まったストレスを上手に発散(矛先)できること。
つまりアイティム(矛先の的)を持っていれば発散できる。という結果に結びつく。
要はアイティムが無きゃストレスは溜まる一方。
じゃぁ
そのアイティムを持っていない人の
ストレスが溜まった先はってなると
たまたま頂点になった感情を爆発させるか
逆に頂点を空振りしたことで地の底に潜り低迷するか
そんな状況が眼に浮かぶよ。
結構、好きなことは大事な存在だと思う。
でもね
好きなことをいつしても楽しいのかとなると
それは別でさ。
ちっとも楽しくない時もあるよね。
つか辛い時は辛いわけで。
楽しくないけどさっきよりはマシだよね…。
まあ
そういう辛いときなんてそんなもんでしょ。
そんな時に楽しくしようとしたら
余計にストレスになるに決まっているよと思うよ。うん。
というかさ…
ところでと言うべきか…
ここ半月程で霊的に変化がありすぎた私ですが……
変化というよりも激流。
その激流は好きなことを僅かに楽しむ(マシという程度だけど)ことを
奪い去りはしなかった。
そのことには少しだけ感謝している。
なんていうのかな…
激流は流れの後に
精神の革命を追いつかせないといけないから
だからちょっとばかり大変なんだよね。
精神の革命が先に起これば
結果として運命の変化とかが必然的に現れる。
でも
激流は飲み込まれるままに
死なない程度に溺れていないといけない。
精神的な体力が回復したら
そうしたら
あるがままの自然の残骸。つまりは起こった出来事。
それを受け止める。
でさ次に
自然の残骸の中で
私はどうなってしまったのかを知るんだけど…
精神の向上に対して分析が追いつかなくなっていたり。
また
状況に共鳴する位置まで
精神を追いつかせなくてはいけなかったりとするわけ。
なんで自然災害が運命の中で起こるのか知らないけど
ああ、誰にでも天災はあるけどさ。
それでも
たまにね
降りることのできない見えないレールを感じて。
感じたとしても悪あがきしてみたくなったりもする。
こどもの地団駄じゃないけどさぁ-
踏んでみたくもなるわけよ(笑
でさ
さんざん地団太を踏んで
我に返るとさ
そうだね…
人は生かされているんだよ。
な-んて空を見上げつつ
間抜けな顔をして思ったりしている。
…いや、
間抜けな自分を知ってしまう。
なんだか
テーマ無き記事の連打が続いているけど
底抜けの青空を見ながら間抜けな顔でいることも大事だよねと感じていますよ。
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