人が自己の意思に誓いを立てる時、それは霊的にも見えない力が加わってくる。
その誓いが決意だとしても…
その誓いが思い込みだとしても…
時の狭間に潜む見えない何かが動き出し
その見えない何かは運命へと這い出てくるものなのです。
よく「自分で大丈夫と満足したら後は落ちるだけ」なんて表現があるじゃないですか。
あんなのと一緒で、「こうなんだ」という自己の中での取り決めは、運命へと這い出ていき、結果、運命に「心の鏡」となり反映していくものなんですよね。
理解しなくていいことを理解したり。
わからなくていいことをわからせられたり。
そういう外からの行為も人の運命へ多大な影響を及ぼしたりもします。
その理解したりわかってしまうこととは、本来、脳内に入る必要の無い情報や知識です。
これは事のパターンが変化すれば洗脳という状況を容易に生み出します。
そして、結局は、自分はこうなんだという「時の狭間」と「現実」が癒着した“その僅かな隙間”で、全ての人間が我が敵だと思い込んでしまうほどに息を殺しながら生きながらえる。そんな現実との関係がスタートしてしまうものです。
どんなに気丈な人であったとしても、同じ感情を持った人間。ただ単に脳が故障を起こさなかったから、それらの必要の無い情報や知識を吸収してしまった。それは得なのか不運なのか、誰にもわからない。
実際、鑑定や呪術として人と接している私でも、わからないと感じることの方が多いように思う。
だって、自分がこうなのだという頑なに取り決めた心と脳の法則は、その人自身でしか解除できるスイッチを持っていない。
ましてや、探すつもりも無いそのスイッチを見つけてあげても、なんの意味があるのだろうか。
そんな風にもどかしく感じてしまったりするものです。
それでも、動かなくなった魂の核へ筋力を与えたいという、本能の感ずるままのパワーを持てた場合、人はその「時の狭間」と「現実」が癒着した“その僅かな隙間”から脱することができるもの。
その場所とは真っ直ぐに辿り着く精神の回路でもないし、真っ直ぐに変換できる思考回路でもない。
第一、人は心と脳が直接結びついて生きているのだから、そんな単純明快な答えばかりではないのだ。
だからこそ思う。
たとえ自分の生い立ちに鉄の味のするような思いが刻まれていたとしても、
たとえ自分はこうなのだと自分を取り決める法則があったとしても、
それでも何かしら本気になれば本能が導き出す魂の中心が眠りから覚める。
もしも願いが叶うのであれば
私の心からの祈りが届きますように……。
http://www.youtube.com/watch?v=_oDdpSr0dTk
[0回]