先日、仲良しさんと「智」をテーマにお話をしたの。
まあ、簡単に言えば、いつなんどきにそれまで蓄えた知識を出せば、世で言う智になるのか。
と言うようなこと。
話した切欠は心理学の話に始まり、犯罪心理へと流れ着き、結果、相手の意識を表面化させるのもさせないのも自分自身の「智」により展開が往々にして変化する。という「今回のふたりのテーマ」に到達。
つまりさ、相手が吐き出す言葉にしても、
その相手が起こすであろう行動にしてもね、
自分自身が「相手のどの部分へ始点を持っていくか」による。
その始点とは読んで字のごとく始まりを意味するポイントだけど。
逆に言ってしまうと、その点を何処に持っていくかによっては、自分が吐き出す言葉や、行動によって、
「相手がだすものが変わってしまう」ということ。
要は狂気を呼び出してしまうことも在り得るというわけ。
それって、相手の吐き出したものが「精神の悪」をベースにした場合、自分が悪を引き出す鏡になってしまうという意味でもある。その結果、時として(相手側の)犯罪が完成することもある。
また、鏡を封鎖してしまうと、相手の突き上げる精神の悪は増幅し、僅かなミクロの出口へと向かう。
このミクロへ向かう心理は途轍もない危険を含んでいるよね。
だって、窮地へ追い込まれたけものの状態を簡単につくってしまうのだから。
だからこそ、それらの(相手の)感情を「智」により
空中分解させることができればいい。
まあ、最後のお話での〆はそんな内容だったよ。
というかさ、こういう心理は大小問わず、いつでも潜んでいる「魔」でもある。
こういう魔は幾万通りにも現実で展開してしまうのがこわいところ。
たとえば、職場のいじめのきっかけになるとかもあるしね。恋人や家庭の離別や崩壊とも繋がるわけ。
だからこそ、智を生かすには、始点の捉え方が重要なのだと思うよ。
…ふたりでそのお話をしたいがために、仲良しさんはまるまる1日をかけて分厚いハード本を読み終えてくれた。その本を読んでもらわないことには意味が伝わらないし、ましてや互いが同時のスタートラインへ立つことが出来ないから話がややこしくなってしまう。
で、仲良しさんはがんばって読んでくれたわけ。
こういう話は誰とでも出来るわけじゃなくて、話してもよい相手というのがある。
まあ、その仲良しさんとはそんなお話をしょっちゅうしている。
なんていっても、その仲良しさんはがんばり屋さんなんだよね。
猛烈な努力をなんなくこなしてしまう。それも何てこと無い顔をしてね。
生きるということに対し、その仲良しさんは貪欲で粘り強い。
そういった姿勢に私はいつも尊敬の念を抱く。たとえその努力がずれた方向だとしてもなんだったとしても、大切なのは、純粋無垢な姿勢だからね。
こんなタイミングじゃないと、とてもじゃないけど目の前でこんなことを真剣に言えないわ…。
第一、照れてしまうからね。
その仲良しさんが、記事にコメントを入れないことを百も承知で書いている。
なんていうか…
ヤツが居るから私も真っ直ぐに戻れる。
そんな気持ちがいつもあるかな。
ヤツは大事な存在です。
なので今在る様々な素材を社会的に生かす時期がきたら、誰よりも応援し、協力していきたいと思っているんです。
ヤツの夢が夢で終わらない、終わらせないために、力になりたい。
何の迷いも無くそう思わせてくれる大切な人ですよ。
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