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夢を追いかける仲間
智と人間性
自分以外の誰かをおそれる。
また
尊敬の念から羨望する。
そういう瞬間が在る。
こういった瞬間は確かに起こっている「物事」が強烈過ぎて、それらの行為に目と心を奪われる。
しかし、誰かであるその人へ世界観の異なりを明確に本気で意識した瞬間とは、誰かであるその人の「強い思念」と、それと共鳴し直結で連動している「智」が繰り広げている行動と言動の様なのだ。
たいした智ではない場合、前文で言う「強い思念」は存在せず、ただ在るだろうものは「悪賢い」という知恵なのではないのかと思う。悪賢いという表現が不適切だとすれば、探求に探求を重ねていったら「
欲」という本能へ辿り着くのではないか。
つまり、本能を小出しにしたり丸出しにした欲からは悪知恵しか発案されない。それは智とは言わないだろう。
要は、本能の欲ではなく、我が思いの根底の気持ちを素直に読み取る習慣が、智と成り得るもの。
話は戻るけど。
結局は、この人には勝てないとか、羨ましすぎるという、自分以外の誰かへ人間性の評価を下すときというのは、行為や言動ではなくその下にしっかりと息づいている思念へ「肝銘(感銘ではなく肝銘)を受ける」のだと思う。まあ、この肝銘に付いて言えば、人によっては「行動や言動に目と心」を奪われることで、その下で繰り成す肝銘を認識できずにスルーしているだけだということも往々にして考えられるもの。
仮に、その肝銘が悪く出れば「鼻を折られる」という意味となる。この鼻が折られるという私が考える起点は、屈辱も怒りも抹消された意味での鼻を折られるという意味。
それから、肝銘が良い意味で出た場合は、尊敬の念を腹の底から持つ。
まあ、こういったパターンを予測できたから、感銘ではなく肝銘という言葉を使ったのだ。
上辺だけの人生を捨て本当の意味で我が人生を歩きたいのであれば、悪知恵を捨ててしまえばいい。
だいたい、悪知恵とは、人を騙すこと。騙す人は騙されるもの。
そのことに気づかずに回転が早いと思うのは浅はかというもの。
智とは、知識を増やし行動や言動とし用いる「思考」を意味するものではない。
持ちうる素材を発酵し、より熟成させ、それら熟成したものを自在に行為として生かせるその表現が智なのだと思う。
また、
知識と思念の連動無しに智は生まれず。
無垢な心にのみ純粋な智が宿るものではないのかと、そう思う。
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