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締め切りまであと2日テーマは自分探し
7/30 pm11:59締切
第二回お茶会~オフ会第一回目のお茶会の
記事は
コチラ☆☆☆☆☆end☆☆☆☆☆
拍手からのコメントより質問が入ったので記事として取り上げました。
質問のあった記事→
こうなることが大事なんじゃなく、こうしたいという気持ちが大事質問内容は
精神の浄化=謙虚という部分をもう少し詳しく聞きたい、との事。
質問の対象となった文章をリンク記事から以下へ引用します。
>目的の構造を理解するということに思考だけではなく気持ちも同時に辿りつくまでは
>
精神の浄化の入り口、いわゆる謙虚さの真意に到達しないと無理なんですが
>その位置は真剣に生きていないと謙虚さの真意にも到達できない位置でもあります。
質問に答えていこうと思いますが、答えていくというよりも上記引用に関連している部分を噛み砕いて説明する感じになると思います。
それと無駄に文章が膨れているように思うかもしれませんが、それは質問して頂いた内容から推測できる
おそらくは理解していないであろう部分に対しての文章です。
ただですね噛み砕いて書くと逆に文章量が増えるのは防ぎようが無く、なので読みづらいと思います。しかもそもそも文章を書くのは苦手です。それでもなんとか分かりやすくまとめて書きますので、がんばって読んでください。
※ 分かりやすく書こうとすると文章力が無いのでおのずと抽象的な部分が目立ちますが、その辺は質問とかもらえれば説明します。
興味の無い方はスルーして貰っていいような話しです。たぶん興味が無いと、読んでもあまり意味が無い記事になると思われますので。
まずリンク記事の内容は【目的の構造について】書かれているようなものなんですが、
タイトルにも書いてある通り、こうなることが大事なんじゃなく、こうしたいという気持ちが大事ということをテーマに沿って話していると思います。
以下より本文です。
リンク記事のタイトルでもある、こうなるという結果を求めるだけなら気持ちは要らないはずです。
結果を求めるだけなら、単純に機械的に頭脳プレーで事を進めていけば良い事なわけですよね。そして最終目的である結果へ辿りつけばいいというだけです。
いわゆる気持ちがゼロでもできてしまうし無慈悲でも冷酷でも構わないはずです。結果を出せばいいわけですから当然そうなりますよね。
世間で言われている計算高いとか腹黒いというのは、こうした部分の多くが表面化されたゆえに言われていることだと推測できます。
また、結果を求めるのに対し善良な気持ちや真心などの気持ちを添わせるというのは、一般的な表現で汚い人間に値すると思います。
しかしたんなる計算やプログラムなら誰にでも出来る事とは言いませんが、計算やプログラムだけを追い求めて結果を出すという行為は人間の構造に対し相反する行動になると思います。
それはもともと
人間が感情の生きものであるということが基本(=人間の基本の原理)になっているため、計算やプログラムだけを用いた応用(または機械的な実行や実践)とは、統計学を用いた占いと同じで肝心な時にハズレて役に立たない、つまりたんなる勘と一緒ということです。
(別に統計学にたいしての非難ではなく比喩としてのたとえです)
仮に人の感情を頭脳だけで操作できるとしたら、ある一定のエリアまでは操作が出来るかもしれません。ですがある一定以上は無理です。なぜなら
人間の基本の原理を無視して上から押さえつけるわけですから、どんなに感情を把握したと思っても所詮どうあっても力で抑え込んでいるだけだしまたは操作していると思い込んでいるだけとなります。
※ 感情を操作する等は人間の基本的原理に対し逆行する行為ですので、根底へ行けばいくほど混じり合うはずがないです。ただし心理学というか医学としての療法などは別ですし、また霊感も原理としては同じです。なぜなら本当のことに辿りつくのが霊感だからです。
また
人間の基本の原理を“理解するということはどういうことかと”いうと、私の考えという主観が無い状態で物事を理解しなくてはならないのですが、最低でも
現実を見る目が無くては理解などできないし、ここは霊感と深く繋がる部分です。
ただし理解するというのはちゃんと理解した場合と教科書的に理解するという場合とに分かれているはずです。
要するに、理解するという部分に対し人間の原理を含んだうえでの気持ちがあるのか(ちゃんと理解したか)、無いのか(教科書的に理解した)で違ってきます。つまり無い(教科書的に理解した)という部分について言えば、テスト仕様としての模範解答ではあっても、この世の本当ではないということになります。
テスト仕様の模範解答が気持ちが無く教科書的に理解したものであるならば
気持ちがあってちゃんと理解したというのは、謙虚な気持ちを持てたことによりちゃんと理解できるということになります。
つまり
自分の浅はかな主観によってたとえば大切な誰かの気持ちを理解できない事に遭遇したとしたら、それは結果として多かれ少なかれ【誤解】が生じていたはずです。その誤解が存在するということは、最低条件として“真剣に考えていない”ということになります。そしてそれはつまり大切な誰かの気持ちに気付こうとしていないし知ろうともしていないということにもなります。優しく言うと他人事であり割合はどうあれ無関心です。
ですが他人事でも無関心でもいられない状態に直面した場合、いわゆる嫌でも考えを改めなくてはいけない、または考えることを避けられない事態というのが生きていればあるもので。
考えを改めないと(たとえばですが、大切な誰かやナニカを守ることもできないので結果的に失うことになると)
気づけば、考えを改める方向へ意識が働きます。この状態は今までよりも真剣に人生と向き合った瞬間というだけのことです。
その場合、まず何が起きたかを把握しようとすると思います。
↓
そして主観などの私はこう思う的な部分を出来るだけ取り払う努力をしつつ状況把握に努めると思います。
↓
状況把握が進めば必然的に、見ている視点を広げる努力をしなくてはいけなくなるはずです。
↓
全体像を把握しようとするはずです。
↓
現実の事態がどうなっていたのかを把握したら、事態がどこへ向かおうとしているのかを理解しようとするはずです。
↓
(中略)
↓
過去記事
【こうなることが大事なんじゃなく、こうしたいという気持ちが大事】↓
(以下略)
といった具合でコレまでの考えを改めるがゆえの働きかけを実践していくと思うのですが、
この心境の境地(心の立場)になるキッカケになった前文の
気づけばという部分は、謙虚という精神的姿勢と引き換えに発生します。それはつまり“考えを改めないと大切な誰かやナニカを守ることもできない”という気持ちが
謙虚さそのものであり、その謙虚さに人として
気付かされるわけです。
※ あくまでもたとえに対しての説明です。
この謙虚さが自分の深みを出していくものなんですが、謙虚な気持ちを持つということは自分の謙虚さで自分の醜さを洗うという行為とイコールになっていきます。これはこの世の法則です。
謙虚な気持ちを持つ
||
謙虚さで自分の醜さを洗う
||
醜さが洗い流されるわけなので精神の浄化とイコールになるとなります。
謙虚さを持つということは気づきが必要不可欠でありまた自己内の自動浄化装置のようなものです。
※ 謙虚さを持つ=(ただしくは持ち続ける事が出来る場合のみ謙虚さを持ったとなります。つまり本当に気付いたという意味)=謙虚さの真意>
精神の浄化の入り口、いわゆる謙虚さの真意に到達しないと無理なんですが
謙虚な気持ちとは、これまで当たり前だと思っていた何かしらに対し、当たり前ではなかったと知ることなんですが、本来はやってもらって当たり前のことなど存在していないという、この世の本当を知っていきながら多くの人は年齢を重ねているように思います。
と、こんな具合ですが納得して頂けたでしょうか?
引き続き疑問があれば折角の機会なんで迷わずに質問してください。
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