雑草のように大自然に根付く力って人にもともと備わっているんだよね…?
なんせ人も自然の産物なわけだし?
精神力のエリアで生きづらくしているのではなく
錯覚的な意味での誤解が生きづらくしているということがあります。
まあ、今日はその誤解に関わるお話をしようかなと思います。
写真に写ってるたんぽぽが何かしらのトラブルによって今ある場所がなくなりたんぽぽごと流されたとしても、自然は乱れることなく循環する。
また逆にそうしたトラブルがないと自然の摂理、いや、バランスは乱れてしまう。
たんぽぽにとってのトラブルを人に置き換えてみても
きっと同じことが言えたりする。
けれども人の場合は立場が他人なのか身内なのかでトラブルの意味が違う。
確かに身内なら深刻にもなるから意味の深度が違うかもしれないけど…
こういうのってナニカが起きてしまうことが人をどうにかしているわけではなくて、
なにが起きたとしてもナニカが起きてくれなかったとしても
起きたトラブルに“流されるから”自分で自分を破壊してしまうんだよね。あくまでも破壊されるのではなく、破壊しているという自爆的な意味です。
結局ナニカが起きたからどうするか?が現実なんじゃないかなと。
つまり過去を見て生きている人と現実を見て生きている人との視点の違いみたいなものかな。
簡単に言うと起きた状況により気持ちが変化するということは流されていて
起きた状況と関係なく気持ちが変化するのは流されてない、というような意味。
ちなみに生きている限り自分は“自分でいたいと思うように”人はブログラムされているので、自分でいたいという意味を根底で履き違えてしまうことでミスが、、、つまり今日のテーマでもある“誤解”が起きるのだけど、その履き違えてしまう点で代表的なのが
「こうであって欲しいという」願望(過去を見て後ろ向きに歩く人)という考えが
履き違える原因として、とても多いんだよね…という話しです。
根柢で正しく処理されていれば
「これは起きてしまった事ことだという」現実(今を見て現実を歩く人)となるはずです。
ゆえにもともと備わっている大自然に根付くような生命力のパワーを出し切るためには視点の切り替えが必要で、視点を切り替えるためには考えることが必要不可欠でという先の長い話しだけど、自分が自分で生きていきたいと思うなら長い道のりを行くしかないわけです。
まあ、何事もそうですが近道は悪い道でしかないし実行することで運を下げるものでしかないんですよね…。地味だとは思いますが視点を変えるということは脳内においては何気革命だったりもしますよ。もちろん自己内の革命ですけどね。
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