嫉妬は異性間でなくても誰しも存在している感情なのだと思う。
しかし、そんな中でも殆ど嫉妬をしない人も居る。
じゃぁ、嫉妬を殆どしないからといって、感情が薄く、薄情なのか。となると、その部分と直結でイコールにはならない。まあ、結果的に、関連していても直結ではないということなのかもしれない。
嫉妬すると、どうして人は醜くく醜態(しゅうたい)をさらすのか。
それがリアルで表現したとしても、自己内だとしても、だ。
1万人いたら、9,999人は、醜い自分を好ましいとは思えないだろう。
例外もいるから1人だけは別かな、というだけのことだけどね。
実は
つい数時間前
とある人間と、嫉妬の件について散々はなしをした。
嫉妬は
その人その人で、(心で)捉える場所が在る。
また吐き出す方向性が異なっているのだと。
その中で
醜く歪んだ鬼のようになった、そんな自分の怒りをモロ出しにして表現してしまった場合、
事実が迷宮入りし、しかも、事実を歪曲して理解した上に在りもしないことを事実として置き換えてしまうものだよねという、そんな話しをした。
だからこそ
嫉妬心は誰にでも在るのだから、受け止める(心の)場所が問題なんだよということ。
また、表現する方向性という意味でいえば
嫉妬を剥き出しにする以前に……
一緒に居たいとか、
さみしかったとか、
甘えたいとか、
そういうのがあるから嫉妬心が増幅する訳で。
そういった、些細なことを素直に伝えることは大切だよねと。
つまり、それが吐き出す方向性とイコールの意味になる。
なんていうのかな……
嫉妬心の中に、鬼も居れば、まともな自分もいないかな………。
人の感情が陰陽のどちらかに完璧に偏ることなんて在り得ないと思うんだよね。
そういう時でも、鬼みたいな自分の怒りに身を委ねてしまうんじゃなくてさ
もっと、こうね、
台風の中でも負けないで咲いている一輪のたんぽぽみたいに…
あるいは、厳しい冬に咲く花のように…
どんな時だとしても
人の心には必ず在るんだよねと思うの。花が。
感情に身を委ねるということは
自分以外の人間を見下すという意味にも繋がるし
おまえ何様的な意味にもなってしまう。
やはり人は
心で感じ
感じるからこそ
頭で考え
そして最後に行動するものだよ…。
そうしていかないと、犯罪者になってしまうこともあるし、俗言うカスになってしまうこともある。
嫉妬心がいけないわけじゃない。
嫉妬したらしたで仕方ない。
そんなことじゃなく
受け止める場所と
「切り換える思考」という名の吐き出す矛先なんだよねと、そう思うような会話でした。
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