前々記事で、嫉妬心について書いたのだけど…。
受け止める(心の)場所について、少しだけ補足をしておきます。
たとえば
好きな人がいて
でも、その人の側には他の異性が居たとする。
簡単にいえば、ライバルが居るということ。
そこで競争心が出る。
一瞬だとしても長期間だとしても、自覚していてもしていなくても、
人が人で在るが故に持たされた生存本能なんだと思うのね。競争心。
その競争心は時として醜態(しゅうたい)をさらすものでしょ。
無様で醜いそんな人間の闇をさらけ出してしまうもの。
でもね
闇しかなかったら
闇だとは分からない。
光しかなかったら
光だとは気が付かない。
それと同じでさ、その中に謙虚な気持ちがないかな…。
まあ……もともと無い人間もいるけどさ。
だとしても、なんだとしても、謙虚な気持ちをまずは競争心(たとえば嫉妬心)の軸に持ってくる努力をしてみるといいと思うのね。
当然、嫌な気持ちは変わんないよ。辛いのも、そういう不の感情は何もかわらない。
それだとしても、ちょっとだけがんばってやってみる。
できなかったからといって諦めるんじゃなくて、逆上がりができなくてがんばって練習する子供みたいに、何回でもチャレンジする。そういう時は、苦汁に満ちたままやるものだし、仕方ないよ。
だって、そんな時は何やったって辛いわけだしさ。
でね、
謙虚な気持ちっていうのは
たとえば
やってもらって当たり前のことなんてこの世に存在していないし、そんなもの何ひとつ無いということ。
ごめんなさいには、作り物じゃなく、本当の謝罪の気持ちを込めるとか。
まあ、そんなようなことなんだと思うの。
そこで、ひとつ大切なことなんだけど。
自分は駄目なんだとか
そういう気持ちは、自分だけ特別、と少なからず感じているわけで。
それは
どちらかというと、上から目線になっていたりするもので。
つまり
自分以外の人からしたら
おまえ何様的な意味だよね。
できないとか駄目とかじゃなくて
できなかったとしても
チャレンジしつづけることに意義が在ると思うの。
それでも、所詮は結果でしょ。
そりゃそうだよ。
世の中、結果が全てだよね。
なんていうのかな
もしも、それが事実だったとしても、こうなりたい。ただ、そのために努力し日々突き進む。それしかできないよねと思うんだけど。
だって、人は魔法使いじゃないんだし。
たとえば、そこで結果が駄目でした。
だから自分は駄目人間です。
それって、そうじゃないじゃんねと思う。
努力していないなら別として、自分の能力の範囲でがんばった事実があるのに駄目とか言うとしたら、世の中に人は存在していないんじゃないのって思う。
結果なんて、やってみなきゃわかんない。
それでも、
その結果へ向けて考えたり努力するのが人の能力の限界なんじゃないの。
だからね
自分は駄目という言葉は時として自嘲というよりも、高飛車な意味にもなるものだと。
つまり
謙虚な気持ちを心の中心に座らせておけば
人生で台風が来ても、少しは違うでしょ。
台風を捻じ曲げることは不可能だよ。
それでも、備えることはかのうだもの。
また、その謙虚という気持ちは
大切なものを守るのための武器にもなるもの。
なぜなら
人と人は言葉に密着している「心(本当の気持ち)を」感じながら生きているものだと思うんですよね。
受け止める(心の)場所――。
それは謙虚な気持ち。その部分が本当の自分でいれる位置だったりします。
なんていうか、心の整理が1番難しいなって思いますよ。
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