肉体に獣は潜んでいる。それは獣の自分。雄と雌という何れかの性別を持つ自分。
そういった自分自身は誰にでも在る。
生れ落ち獣の本能により母の乳を探り求める。それは誰に習う訳でもなく本能の成せる業。つまり獣のままで生命を弾くように貪る行為。その行為は人間として生れ落ちたのだし、人間としての当たり前の行為だよね。
この世に在り自己の中にも在る幾つもの疑問は、私自身の中にも未消化として存在しているものも在ります。
通常、「無意識のエリアに潜む人間の感情」とは、「科学」や「哲学」や「倫理」の分野へと拡大して視野を向けていかないと理解は出来ないもの。
しかし霊感は科学や哲学や倫理とは異なる。異なるけれども辿れば皆が皆、其々の異なる分野であっても、其々の分野に値する同等の意見へと辿り着くのが霊感。答えの質は霊能者の人格も必然的に入る。人格というよりも「品」という方が合うのかもしれない――。
先日、ブログのいちファンだという男性からメールを貰いました。
メールを送った男性は、「鬼を消すことができるのか」という疑問を持たれたようです。
私は基本的に返信はしません(文章による誤解が大なり小なり必ずでてしまうので)。ここで記事としてあげさせていただきます。ちなみに取り上げた理由ですが私自身も気になるポイントだったので今回は特例とします。ただし、(メールに書いてあった質問だと)質問対象の的が大きすぎているため、私の独断と偏見によって質問の的を縮小して回答させてもらいます。
培養され繁殖した戦闘人形 ←このブログ記事の中に存在している鬼をテーマに書きます。
それと、ブログ記事に対しての質問やご意見がある時は(コメント欄から)送ってください。
(例えばそこじゃなく、こっちが知りたいとか)
【注意】
精神的に混乱している状態の時は以下の文章を読むのは控えた方がいいと思います。触れなくても良い事柄というものが人により存在しているし、より酷い混乱を精神面で爆発することもあります。
以後は(読む読まないは)自己判断になりますが、読みすすめる内に嫌悪感に襲われた場合は途中放棄してくださいね。
+゚・。+☆+。・゚・。+☆+。・゚++゚・。+☆+。・゚・。+☆+。・゚++゚・。+☆+。・゚・。+☆+。・゚++゚・。+☆+。・゚・。+☆+。・゚+
人間の肉体にいる鬼とは、野獣。
野獣は道徳を知らず。
人間のみが持つ崇高な情緒の知恵を持たず。
欲を剥き出しにする。
そして、それら欲とは様々な形がある。
愛、食物、地位、物、誰かの精神など。数えれば切が無い。
獣の欲とは多くのものを支配したいという思いが欲として表現されているのだろうか……。
獣は無意識の奥深くから唸りをあげるけれど、果たして認識と自覚はどの程度できるのだろうか。
それら無意識を辿るとどんな人間としての自分が在るのか。もしも、余り無く自己の無意識を辿れたとしたら、全身に戦慄が走り精神を崩壊したくても出来なくなるのだろうと考える。そしてその状態は心の鏡により、いかようにも運命を歩けるのだ、と。全てが起点に戻る。
が、しかし、宇宙の法則に従ったままで何もかもが本当は変わったように見えていただけだということになるのだと思うよ。
前頭連合野とは脳の(一部の)部位の名称。
前頭連合野は「何がどうなって、どういうふうになるから、こうなる」というような思考を持たなくなると、思考回路と共に脳が変容する。ここでの変容とは前頭連合野の脳萎縮。
つまり前頭連合野をほぼ思考回路として使用しなくとも脳の生命維持は可能だとも言えるのだろう。
前頭連合野が萎縮する過程で重要なポイントになる年齢があるのではないかと私は感じている。
その年齢とは小学校低学年。7~8歳までの1年間が特に重要なのではないかと思う。ここに理由を書いてもいいけれどたぶん難しく書かないと(今の私が把握している範囲で考えた場合)説明が出来なくなってしまうし、しかも過剰な説明は「(別ブログの)精神の探求~Search for spirit」 の範囲に値すると思える。「Love&Peace-World」 を気に入って見に来ている方と、「精神…」の方を見ている方とでは、閲覧の比率が違いすぎます。ということは、同時に(両者のブログは私が書いたものですが)閲覧者の(趣向の)傾向は「多くが異なっている」と、思うのです。なので以降は細かな説明を省きます。
さて、ここであげた年齢を境にして前頭連合野の萎縮はスイッチが押される(全てのそれらの年齢に値する子供が対象という意味ではなく、その年齢の中でも対象となる子供を示しています)。
なぜ、どうして、前頭連合野の脳萎縮が進むのか。
様々な専門エリアから辿れば無数に原因はあると思うのだけれど、私が考えるそのものとは「社会の風潮」だ。
まず、子供も含め、親や学校の先生。或いは子供と接する大人。こういった人間にも既に前頭連合野の脳萎縮が蔓延しているということ。しいて言えばその風潮が「ごく当たり前」になっているのではなく「より多く」なっているというだけなのだ。
では、前頭連合野の脳萎縮の人間であると仮定して例題をあげてみます。
児童が同じクラスの子供に蹴られたとする。先生はその子を蹴った児童と、蹴られた児童から話を聞く。
蹴った児童にも蹴ったなりの理由がある。そして、其々の理由を総合的に判断し、ふたりの児童を和解させる。
ここまでの行為は単に兄弟喧嘩をなだめすかす親と変わりはないだろう。ではなぜにこんな例題を出す必要があったのか…。たったコレだけの状況で何が分かるのか。細かく話を聞き、細かな観察をする。そういう確実に事実を知ろうという意識さえあれば、たったコレだけの状況が身の回りで起こっても「事実を認識できる」と、私は考えています。これらの意味は下記の文章にて追って説明していきます。
「本能に、より近い思考。或いは本能そのもの」
「短絡的な思考」
この二言だけだと「浅はかなんじゃないの」または「ばかだろ」とか言えると思う。
だけれども、前頭連合野の脳萎縮の恐ろしさはそれら二言が存在した上で、「学問」や「多くの知識」が混じり合っているのだということ。
言い換えれば、「学問のエリアである知能」が高くなければ前頭連合野の脳萎縮にはなっていないんじゃないか。という、ある意味自分の中での結論に達している。
つまり高次元(? 相応しい言葉が見つからないので高次元とさせてもらいます)の知能が存在すると、ただ単に前頭連合野の思考回路は使用しなくとも済むという意味にもなる。
そして、この現象の欠点は「感情と情緒の欠落」或いは「感情と情緒の欠損」。
この「欠点を持つ人間(前頭連合野の脳萎縮が進行している人間)」が、「(欠点を対称にした時の)無傷の人間」の周囲へある程度の人数がまとまったとする。
すると、「欠点を持つ者の思考が通常の思考」だという「偽りの状況」または「偽りの真実」ができあがる。
それらが人間関係の摩擦や子供をノイローゼやうつへと追い込んでしまうひとつの原因でもあり、現代の社会生活に不満と欺瞞を抱き心を凍結してしまう成人をより多くつくってしまっていると考える。
ここで社会の風潮について熱く語っても良いのだけど、今回の記事の目的に戻り話を続けていきます。
前頭連合野の脳萎縮が進んだ人間は感情がどんなものかということを把握するまた認識する能力が薄いのですが、確実に「他人から嫌われたとしても世渡りが上手い」と言えるでしょう。
世渡りが上手いと表現する意味の中には、用意にイメージできる「社交的な人」である場合もあるし、「反社会的ではあるが自分のテリトリーで満足して生存している人間」のこと。
だが、この両者における範囲の間にも、「世渡りが上手い」という痕跡を残している人間も、当然存在している。
つまりは、前文にて出した例題。「他人から嫌われたとしても世渡りが上手い」に値するのが先生であり、児童であったりするということ。要は表面で起こる状況の事務的な事柄だけを追ってしまえば「当たり前のこと」だといえる。しかし水面下では人間の感情を無視した(自覚が有る無しに関わらず)陰湿な行為が実行されている。
しかも、その中で「不当な道徳」を世の真実だと言い聞かされている場合が多々あるのだということ。
それが前文で書いた例題の答えであり、「事実を認識できる」重要なキーワードになる思考の展開のひとつだと考えています。
そしてそれら「前頭連合野の脳萎縮」とは、巨大な学問的な知識とその学問に纏わる知恵によって「短絡的な思考の癖」が常習化することが「脳萎縮の進行」だといえます。
では、今回のテーマである「鬼」。この部分に話を進めていきます。
鬼そのものとは人に沈む本能なのか、正体は何なんのか、この鬼の位置づけの更なる正確さを知ろうと現在の私は究明を続けている最中です。勿論、霊的な答えと、現実としての様々なジャンルからの答えは必ず表現は違っても同等の事柄であるのだという仮定のもとに進めています。
しかし、その中でも言えることがあります。
それは前頭連合野の脳萎縮を持ち合わせている者は鬼を丸出しにしているのだと。
道徳や秩序の文章上の意味を確実に理解しているのに、感情を持たぬ、哀れな鬼であると――。
哀れな鬼は人生を演じることでしか感情を表現できなくなっているのだろう…。
そして、短絡を極めたばかに見える利口。いや、利口だから短絡を極められる。
多くの知識を持ち合わせているからこそ狂乱しない。ましてや(前頭連合野の脳萎縮により)残忍な情緒が芽生えるのだと…。
私自身はそう捕らえている。そんな中で反社会的な行為に及ぶか及ばないか、という、行動の選択が残されているだけだといえる。
また、そういった地道に侵食している現象は、余りにも(前頭連合野の脳萎縮が進んだ人間が)当たり前のように世の中に存在している。それらの存在は、社会の風潮に対し「偽りの道徳」を蔓延らせている。
その結果、多くの人間が見事なまでのマジックショーのトリックに掛かっているのだと、そう感じているよ。
だったら、だとしたら、この鬼に翻弄されないためにはどうすればいいのか。自己の中の鬼に立ち向かうにはどうすればいいのか……。
それには思考回路の強制でしか方法はないと思っているよ。
つまり、それまでの思考回路を無理に押さえつけなければ不可能だと考える。要は思考回路の変換。
参考ブログ記事↓
考えることの難しさ Ⅲ ~ 心理的な展開
霊現象が多発する原因のひとつとは何か
あとは自分次第。本当にコレじゃ駄目だ。変わりたいと考え願い請う強く強靭な意志を、弱気な自分が居ても持ち続けることでしかないのだと、そう思うよ。
【鬼からの脱出法↓↓】
オセロをやって、大会に出て、優勝を狙うくらいの気持ちと事実が無いと感情や情緒面の知能は発達しない。
なぜなら感情も情緒も努力が必要だから。素質だけじゃ無理だからね。
つまり、簡単に言えばオセロ(将棋も)とは感情と情緒が発達する行為だということ。それと付け加えるのであれば、そのふたつ以外に(私自身が)確実に「(専門家の指示が無くても間違いなく安全に)思考回路の変換」が、できるという行為そのものを知らないという事実も在る。
ちなみに、今回は前頭連合野を対象にオセロ(将棋)と書いたけれど、前頭連合野のみにいえることでも無い。
様々な意図がありオセロ(将棋)と表現しているのだということを理解してもらいたい。
それから肝心なことだけど、オセロをただやって強くなれば良いという意味ではない。
「鬼に翻弄されて堪るか」という意志のもとに、「この世の真実と自己の中の真実をしろうという努力」が無ければ、オセロをやる意味は無くなる。
それに自分以外の誰かをそういった意志のもとに導くのは不可能。
所詮、「自分で変わりたい」という気持ちが本人に芽生えなければ変わらないということ。
それは、この世に存在するどんな処方を駆使しても不可能だと思うよ。結局は自分なんだよ。
[0回]