※まず先に「
前頭連合野の脳萎縮~鬼と呼ばれし者よ 」の記事に眼を通してください。その方が明確に伝わるかと思います。ただ、途中から文章を放棄した方の場合は、放棄した事で疑問は残ったままの文章になりますが意味は理解できると思うので、このまま読みすすめてください。
精神とは、脳の中ではどの部位に属し、その単調な指令を出す精神が属する脳と連動する精神力はどこにあるのか――。
霊的に科学的に医学的に哲学や倫理。様々なジャンルから総括したこれらの答えを導き出すことに挑んでいます。ハッキリ言って無謀。だけれども諦めず、一見関係無さそうなエリアからも侵入を試みています。
今日のブログ記事で上げた「
前頭連合野の脳萎縮~鬼と呼ばれし者よ 」だけど、鬼は消えません。
ならばなぜに「鬼からの脱出法」を記事内に書いたのか。
それは人間が人間である故に、人間が生まれもされた機能を片寄った伸ばし方をする。(この場合の片寄ったとは、最終結果が「前頭連合野の脳萎縮」に繋がる。それを片寄ったと表現しています)
機能の片寄った伸ばし方をすることで、本来の人間である正常な機能の総合されたバランスを失います。
そして、更に、失ったバランスは、類似した人間が集団化することで「偽りを正義である」という道徳へと、
正常な意識を持つ者(前頭連合野の萎縮が無い人間)を容易に
自分達の思考エリア(前頭連合野の脳萎縮が進行している人間)へとなだれ込ませてしまいます。
それらの大まかな状況をある側面から捉えれば、「社会現象」というでしょう。
つまり、上記文章をまとめれば、片寄ることで破壊される人間の精神面が社会現象を起こしている。となる。
が、しかし、片寄らなくても人間には鬼は居る。鬼を獣ともいうだろう…。
要は「鬼からの脱出法」を書いた理由だけど、鬼が鬼のままではない精神状態を維持していくにはどうすればいいのか。それを「脱出法」と称したということ。
話は戻るけど、それら鬼は人が死んでも尚、霊と成り残る。
鬼からは逃げられぬのが人ではないのかと考えてはいるけれど、それでもハッキリと言い切れるものでもないと思っているよ。
生きているから鬼が居るのではなく、霊となっても鬼である。
鬼をコントロールするには、より高次元の情緒が存在する知能を磨かなくてはいけない。今の地点で簡潔に、明確に、間違いなく言えるとすれば、それだけ。要は「
前頭連合野の脳萎縮~鬼と呼ばれし者よ 」で記事内に書いたオセロ(または将棋)は、高次元の情緒(の存在する知能)を、人間の機能上、より的確な表現としての「思考回路」を定着させることが可能だといえる。それが今現在の私が言えること。
だけどね、鬼を感じる人間は、自己を限りなく見つめている人じゃないと感じないものだと思う。
鬼が居て当然だよ。所詮、人は動物なのだから。
それを排除することは無理。(成仏しない限り)死んだら更に鬼だけが暴走するんだもの。無理に決まってるでしょ。
人間は野生の心が在るからこそ学問に携わる。学問だけに集中すれば素晴らしい成績を持ち社会にも貢献はできる。けれどもね、情緒もしっかりと伸ばしていかないと、人生はテレビの中の物語だよ。ということになる。
情緒も持ち、学問から発展した頭脳を持つ。それらと葛藤しながら生きていくのが人間。それがなくても人間ではあるけれど、余りにも無様だよ。
人間自体、私は愚かだと思うの。実際、何も出来ないでしょ。ひとりの力で生かされる事実なんて存在していないんじゃないかと思うのよ。こうやって言葉にするとうまく伝わらないような気もするけど、やっぱり何処までいっても人間は愚かだよ。
今の地位を省き利害関係を断ち切ったと仮定する。
その状況でどれだけの人間が本当に困った自分へ思いを込めて手を差し伸べてくれるだろうか……。
愛する家族が愛する恋人が、皆が皆、本当に手を差し伸べてくれるものだろうか。
その無償の行為は自分の存在することにどんな意味があるのだというのだろう。
心の繋がりが深いものが家族や恋人であるとは限らないはず。悲しいかな、それが現実だったりするでしょ。
鬼が居たから退治するんじゃなく、共存すればいい。
共存は共存でも、自分が鬼を容認した後に支配すればそれで良いと思っているよ。
共存の在り方を、自分が霊的な一面から捕らえている事実を含んだ上で、万人に向けて(全ての人間に通用すると言う意味ではなく)発するにはどう表現すればいいのか。その表現を取得しようと現在は努力中。
今の所はそう考えています。なんせまだまだ渦の中の思想です。
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