意味も無い鎧がある。
生まれ持った鎧というものが在る。
しかしそれは本当に初めから存在していたのだろうか。
また
それは、在るというその現状から空間が変わることは無いのだろうか。
仮に
前世での行ないがどうだった、こうだったから、カルマが重いとしても
先祖の因縁が重いとしても
遺伝がどうだったとしても
本当に
それら鎧が在るせいで
人生が重いのだろうか。
私はそうじゃないと思う。
そういうのって、「私の鼻は生まれつきこういう鼻」。そんなのと同じだよと思う。
誰かと自分の何かを秤にかけるから、重いんだという感情が表れるもの。
つまりね、この鼻だから、それがどうだというのだろう…。
仮にね、無理に鼻を変えるというのなら
霊的に言えば除霊や供養というようなジャンルになるのだろう。
また、現代の医療技術なら整形という手が在る。
じゃぁ
整形して
魂の核ごと精神の革命はありましたか?
だって
整形しても
しなくても
あなたはあなたでしょ。
なのに
それを変えたのだから
それなりに整形した鼻とつりあうだけの魂も必要ですもの。
何かを選べは必然的に代償はつきものです。
…まあね。整形を非難するつもりは更々ないです。ましてや、文章として書いたことは、私の中には存在しない感情と思考です。
つまり物の例えとしてという意味ですよ。
でさ、つまるところ鎧なんてあって無いようなものなんだよね。
結局は
同じ人間としてどう生きたいのか――、
というだけでしょ。
見えないものを
無理に見ても
幻想となり
見えるものだけに縋り付けば
幻となり
構えなく
在るものを
在るものとして捉えて
そして
初めて本当が見える
そして
初めて時空が本当の位置になる
まあ、鎧が巻き起こす影響とはそういうものですね。
……それでもですね、当然、例外もあるんで。
当然、誰かの手を借りないと抜けれない人も存在します。
だとしても
どうだったとしても
結局は
やることは一緒。
本当は、在るのだけど、無いもの。
という
「心のエリア」と
「脳のエリア」の
「それぞれが連動した位置」。
そのふたつの「接続場所」を変えることで
鎧という存在は時空からずれ、
無いものと同様となり、
結果的に心の目が開くものです。
そうなると
本当の実力を発揮できる「精神の環境」が整うもの。
そうすることで、やっと、技の鍛錬というスタートラインにたてるものだと
そんな風に私は感じています。
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