愛してるという言葉は人により形が違う。
愛してると思える相手によっても音色が違う。
愛する気持ちを言葉にすると心が壊れてしまいそうになるくらいの、深い愛もある。
愛を囁いても空を掴むような虚しさが木霊する愛もある。
愛など必要ないと体の一部を切り取る人間も居る。
そういうのを考えると、人は十人十色とはよくいうものだと感心する。
考えをある一転に馳せていくと
愛の無い幸せとは存在するのだろうかと考えたりする。
幸せの価値は脳の幸せを表示する分泌物のようなものが、幸せを決定する。
だからそういう意味では、愛の無い多幸感はあるのだろう。それも、擬似の多幸感として。
それでも私は思う。
魂の震えは愛でしか反応しないものだ、と。
母体に愛が無かったとしても
胎児に愛が無かったとしても
魂の慈愛に満ちた集合体が息も詰まるほどに、魂たちが共鳴している。
その共鳴からあぶれた魂たちも
少なくとも愛の洗礼はどこかで受けているもの。
ゆえに遺伝としての愛の欠落は、生きている今が心の姿勢を変える。脳が愛の価値を変える。
そうした愛も在るからこそ、愛の形は十人十色なわけで。
結局、これが愛の当然の形などというものは存在してなくて
ただあなただけの愛の形があなたの中に存在しているというだけのこと。
ただそのあなたの中で、愛の底へ触れることは簡単なことではない。
愛の底辺とは、人を破壊する魔物を住まわせていたりする。
魔物は理性により、知性により、力を失い、ただの愚か人となる。
もともとのそれが愚か人であるかのように、素のままのそれは理性と知性で力を失くすもの。
それでも思う。
魔物の自分を知らなければ理性も知性も役には立たないし何の意味も価値もない、と。
人の奥底は真冬の厳しさのように木々の命を奪い荒れ狂う。
自分の脳とありのままの自分が異なるように
愛する人への思いは現実から掛け離れたところで暴走することも在るもの。
そしてその暴走は魔物を知らずして押さえつければ押さえつけるほどに、荒れ狂うもの。
またこうも思う。
愛に底辺などあるものか、と。
ゆえに自分が知らぬ魔物は底辺を知るごとに目を覚ますものだと、迷路のようにそう思う。
                                                    
                
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