人の欲は果てしなく終わる事が無い。
死しても尚、欲のままという事もある。
欲を持つ事はいけないのだろうか。
寺に入りお坊さんになるとか尼さんになるというのであれば、いけないことなのだろう。
けれどもどうだろう・・・
欲が醜く変化する時とは欲を抑えている気持ちがあったからこそなのでは?とも思う。
だからといって、欲全開で思うままに行動すれば時に犯罪となる事もある。
物事には限度というものがあるということを言いたいわけではなくて
いわゆる欲を出せる場所があれば良いのだと思う。
その場合なにも思い描いた欲丸出しじゃなくても、打ち込めるナニカなら良いんじゃないかと。
欲は抑え込み消してしまうから人の匂いが薄くなる。
欲は転化の仕方が大切なだけで、転化をうまく繋げていければいずれマグマのように吹き上がる様々な欲も鎮静していくもの。
欲って心のマグマなんだと思う。
欲を抑え込むってことは火山口へ強靭なフタをしているようなもので。
フタが強靭であればあるほどマグマが噴出する威力は半端ないはず。
出てくるものを無理やり押し込めるという事は自然の摂理に反するのだから、いわゆる巨大な天災がいつどんなふうに起こってもおかしくはないわけで。
集中出来る事と欲ってイコールだったりする。
集中出来る事をやっていくと欲というマグマは鎮静化する。
なぜなら集中出来る事をした分だけマグマは消えてしまうから。心的に正しい消化の仕方。
ただこうした欲との向き合い方は宗教的には非難されると思う。
それでも誰もが欲と向き合い格闘できるだけの精神を持ち合わせているわけじゃないし、それに結果的に欲というマグマがその分消化されていくのであればそれで良いのだと思う。
それ以上の世界へ精神を踏み入れたいのであれば、話しはまた別というだけで。
マグマって欲だと言ったけど・・・
結局は
http://lovepeaceworld.blog.shinobi.jp/Entry/2174/ ここでの記事へ書いた「悪い気持ちの根っこの事」なのです。悪い気持ちは小さな噴火みたいなもので。
根っこになっているマグマ(欲)も小さな噴火を繰り返している悪い気持ちも
結局は心の目がそうさせているんです。
つまり幻の現実を、見せてしまう、見せられてしまう「正体」というのがあります。すなわち生まれてからの過程により学んだ物事の捉え方の事です。
前に流行った脳科学の話ではなく、ただの現実の話をしているだけなのですが、分かる人と分からない人、分かったつもりで居る人に分かれると思います。
ただそうした「正体」を暴く事に専念して記事を書いてもいいのですが、さっきも書いたように誰もが欲と向き合い格闘できるだけの精神を持ち合わせているわけじゃないわけですし、それに厳しいことだけが正しいわけではないと思うのです。
それゆえ難しい事を今は書くつもりはないので、地下に潜った正体を暴くような話しは気が向いたら書こうと思います。ただ現在メルマガを発行しているのでそちらの方にはそれなりのことを流していく予定です。
さて
欲とは果てしないものだけれど集中できるという食物を与える事で満足します。
逆に集中出来るもの以外の「欲へ与える食物は無い」のです。
欲が示す通りの何物かを与えられ満足する。しかし満足したと思うのはただの一時でしかなく、すぐに飢えを感じます。それも酷くエネルギーを消費したような飢えを感じるはずです。
いわゆる餓鬼感ですね。
餓鬼感を感じるのは当然です。欲は求めているものを得たとしても、心の底で渇望している「目的」が異なるのですから「目的達成後の餓鬼感は」必然だと言えます。
だからこそ「人の欲は果てしない」といわれるのでしょうね。そのいわれに説明をつけておいてくれていれば、欲に対する誤解もここまではなかったんじゃないのかなと思いますけど。
また、心の底で渇望している「目的」ですが、生まれてからの過程により学んだ物事の捉え方の始点で「欲の根底が目的」となります。つまりまやかしの現実を見せる「微動だにしない一点の」ことです。
この一点についての深い話しはとりあえずやめておきます。
人は自然の産物なのでしょう。自然に反する事をすると心が痛みます。時に体も痛みます。
人にとって自然な事を受け入れる事は正常な範囲なのだと思います。
少しだけ幼稚園児の柔軟性を見習ってみるのも良いのかなと思います。
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