智の生かし方が「人間性」という評価のイメージをつくる一部になっていると、常々わたしは感じている。
今ここで私が言いたい智とは、本能により翻弄させられてしまう意識があるけど、そういった本能と感情が絡んだ状態に惑わされること無く、何が起点と成り、その状態が起こっているのかを見切ること。見切ったら、それらの状況に対して「自分はどう対処すべきか」という、その「自分はどう対処すべきか」という意味。
それと、更に付け加えるのであれば、どう対処すればよいのか。というその対処は、行動のみに専念することではなく、たとえどんなときでも「自分に嘘をつかない状態」からその後の言動と行動を決定するという意味での「対処」だよ。
大抵、人というものは、自分がなにを考えているのかを脳機能の高度な技によりすりかえられてしまうことが在る。それは、まるで騙し絵の一面しか捉えられない時の自分という感じかな。
そのために自分以外の相手を深く傷つけてしまう。その結果、傷つけられた相手から本気の優しさを引き出す事が出来なくて、自分が孤立していく。
孤立していくと、意固地になってしまうことがある。
その意固地になった状況は周りからの反感を買う。
まあ、悪循環だ。
というかさ、人が知らず知らずのうちに付いている嘘というのは思考癖に関与しているんだと私は考えているの。この思考癖が存在しているせいで、自分の運を最悪にしている。
だとしても、こういう書き方をされるとキレイ事に感じるかもしれないね。キレイ事ではないよ。キレイ事と感じた人は思考癖の問題。つまりそういう習慣で人の話を聞いてしまい、自分が大きく変化して昇華できるチャンスをみすみす逃していることが多いタイプだと思うよ。まあ、嫌味ではなく、思ったことをまんまで書いただけ。
自分のことを知るには、相手の気持ちを貪欲に知ること。それしかないの。
わからないままに曖昧にするから、曖昧な人生が返る。
そして、本気で助けて欲しい時に誰も居なくなったりもする。また、助けてくれると思っていた人に裏切られる。
けどね、こういった結果としての裏切りは、確かに相手の気質とかもある。だけれども、そればかりじゃないよ。そういう精神の悪を相手の心の中から引き出してしまった自分の「思い」ではなく、「言動と行動」の「自分が発した影響」だったりすることもあるからね。
まあ、ひとことでは書ききれない難しさはあるね。そう、智が繰り広げる人間性。
智とは知識を展開するものでもあるけど、でもね、知識のフォルダを全てばらし組み直しを繰り返していかないと本当の智にはなっていかないものだと思うよ。
なんていうか、智を発する度に、席替えが行なわれる感じかな。持っている知識も知恵もそのままなんだけど、瞬間々で席替えをする。その席替え自体が智という気がするよ。
まあ、人の評価が自分を最低のヤツにしたとしても、実際に最低のことをしてしまっていたとしても、それでもね、自分がどういう人間か理解してもらうためには智は大事だよね。
人生を楽して楽しくというなら別だけど、夢を追いかけている人なら、とても大切なことなんじゃないかとそう思うよ。
[2回]