過去や記憶を慈しむ気持ち。
過去や記憶を悔いる気持ち。
過去や記憶という観点を現実的にいえば過去や記憶の存在をもとに発生した、それが如何様な気持ちだったとしても、それら過去や記憶は現実ではない。
過去の思いを現実に結びつけ
それらがさも本当の現実であるかのように思い込むことは
精神面や人格という生きるがゆえの変化を考慮すると、医学的にも霊的にも好ましいことではないはず。
過去や記憶というのは時折、現実よりもより現実感を帯びた真実のように振る舞う。そしてそれを見ている人間、すなわち自分自身を自分が翻弄する。
(翻弄=ほんろう→手玉にとること。もてあそぶ)
苦しいとか辛いという感覚は本来、人は持ち合わせていないといわれている。
思想家たちの中で、ある種の思想としていわれている。
その意味も分かるし、事実そうなのだと考え感じている。
だからといって、誰も彼もが苦しいとか辛いという気持ちを所持することを否定しているわけではない。
ただ思うのは、苦しいとか辛い気持ちとは、自分がつくりあげていくモンスターであり。
その場合の大抵が、過去や記憶を慈しむ気持ちを持った者が犠牲になっているわけで、すなわち自分の脳に自分が騙された状態なのだと、そう思う。
現実とは今この時に事実として現れたものを指すもので。結局、過去や記憶は自分の中の事柄だというにも関わらずソノ現実ではない出来事を、今という現実に練り込み生きているということは今を生きていないともいえるし、本当の幸せが見えていないということになる。
またこうしたこととは、そんなのは理解しているし、私は大丈夫と思う人の落とし穴もでもあるもの。
それはつまり過信のひとつに値するはず。
その場合、大丈夫と考え思う意識下で起こっている事実がある。その事実とは、自分の外に自分を存在させているという事実があったうえで、自己を見つめていない。その事実は、ただの浅はかということになってしまうもの。
脳のトリックは脳を疑い続けることでしか暴かれないもの。
それゆえ人格形成上とてもよく邪魔をする存在なのだと、そう考えてしまうことが多い。
ゆえに脳に騙され人生を振り回されること、それは悔やんでも悔やみきれないもののひとつでもあるとそう思うのです。
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2011/03/09 (Wed)
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