心の声は自分の中でしか聴こえない。
誰にも見つかることの無い、言葉じゃない言葉。
それが心の声。
心の声は時として叫び声の時もあるし
囁(ささや)きのこともある。
声の大きさも
気持ちの強さも
そういうのがどんなだったとしても
心の声には変わらない。
アノ人はなぜ自分を見てくるのか?
そんなことを身近な人物から質問された。
だから心の声を答えた。
アノ人はとても孤独な日々を送っている。
家族は悪性の現実から目を逸らし、日々の光だけを取り込み
そしてその中でアノ人は生きている。
ただ、あなたを見ている理由は
孤独と人間不信の渦の中で生きているアノ人が、
ひとつだけ見つけた、自分を本当に理解してくれそうな匂い。それがあなたなのだと。
また
アノ人はとことん自分と向き合い
自分を理解しようとして生きている。
だけれども
愛された自覚が無くて
形だけの家族が居て
いつもひとりぼっち。
そんなだから自分に自信がない。
そして結果的にあなたへ話しかけることが出来ない。
ただ、アノ人は人としてあなたの心と繋がりたいと願っている。
会話の内容はここまでですが、そんな話しをしたんですよ。
そして私は思いました。心の声は言葉に出さないと伝わらない、と。
相手に正しく伝わるには
声という音を伝い
或いは声と同等の言葉を借りて伝えないと…
魂から魂へは伝わらないものです。
だからこそ
行動にできる勇気が当たり前のことではないのですが、勇気が湧くのはとても大切なこと。素晴らしいこと。
また、相手のためを思った気づかいは
時として現実逃避ともなる。
次に上げるのは、現実逃避でよくあるパターンのひとつ。
根源に潜んだ悪性の何かを見ないで
今見えている平凡な幸せを優先する。
すると、良くなっていくように見える。
実際、何も変わってないということになります。たんに、良く見えた気がした、というだけの話しです。
だから
根本的に悪性の何かはすくすくと成長し、いずれ現実的に牙を剥くことになるでしょうね。
今だけ。それを見極めるのは、見極めようとする強い気持ちが無いと分かり得ることはできないもの。
“青天の霹靂(せいてんのへきれき)”のように、突如降って湧いた牙。
そんなふうに感じるのが現実逃避をしてきた結末であり、結果。
降って湧いてきたのではなく
牙は、もともとそこに存在していたもの。それが現実。
痛い部分を
言葉という現実で表現し、(自分或いは誰かへ)ハッキリと意識させることができないと、
結果的に現実逃避となる。またやらなかったり、なあなあにして避けることで、現実逃避のスイッチを押してしまう。
現実逃避をしているのに、現実逃避をしている自覚が無い場合のケースで、
「言葉にすることが本当は正しいことだよね」
なんてことを考えていたとしますよね。
そして更に
「そんなことを言ったら○○(相手を怒らせてしまう、相手に嫌われてしまうなど)になってしまうから……」
自分で自分に理由や理屈を並べていたりして…
或いは
相手に伝えるつもりが無い状態で
「それが人間関係の面倒な部分よねえ…」とか思っているかもしれないし。
(いわゆる、これが主観。たんなる思い込みです)
これって、本当のところは言い訳を正当化しているだけなんです。
(つまり、こっちが現実。事実=本当のこと)
その言い訳は、今だけの幸せでしょ。
実際、何も変わらないですよね。ただ誤魔化しているだけです。
まぎれもなく、たんなる現実逃避。
(また、こっちも現実。そして結果)
この場合の現実とは、今の現実に、菌のように浮遊した悪性の何かが同時に存在した状態のこと。
そして更に深く言うなら、悪性の何かが今の現実をつくっているということになる。
※ 悪性の何かという根源があって初めて今の現実生活があるのだから、根源の部分から始っている事実が本当の現実ということになります。
そこから目を逸らせば、悪性の何かは二次的な成長をしていくもの。当たり前のこと。
まあ、こんな感じのことがわりとパターン的に多い例ですよ。
本当のことを知ること。
それは誰のためでもなく、自分のためにそうするもの。
人のためなどなくて、現実逃避へと助走する言い訳でしかないのです。
つまり人のためとは、自分のために本気になれたから、結果的に人のためになるものですよ。
幸せは悪性の何かから逃げ通すことじゃない。
幸せは困難な出来事を避けることでもない。
幸せとは、ただの結果論。
結局
鬼のように努力して研究した。その結果、ノーベル賞を貰った。
こういうのと同じですよね。
努力したこととは、目的を達成するための行動で、いわゆる現実。
ノーベル賞が結果論。
ノーベル賞は貰うのではなくて、貰えるものということです。
ちなみに。。。
人はたまに勘違いをします。
結果をどうにかできると、時として思い込むところがあります。
幸せとは、本当の自分と、現実を受け入れた自分とが分かりあえた時に、自動的に幸せになってしまうもの。
現実を受け入れるためには考えることも、自分を自分が正すことも必要。これは最低限の条件ですね。
あなたは胸を張って、誰よりも幸せだといえますか。
どんな状況だとしても、どんな困難な心境だとしても
そういうのに関係なく、幸せだといえること。
それが本当の幸せ。そういうものだと思っています。
きれいごとでもなく
説教でもなく
ありのままのこと。幸せの現実を書いたまでのことです。
言葉に出して思いを正直に伝える。
できないとしたら、怖がっている理由は何なのか。
また、その理由は、自分が言えないという「事実の、本当の原因なの」か。案外、言い訳ではないのか。それか、言い訳の正当化とかね。
或いは、ただの「結果」を理由にしていたりすることもありますよ。
この場合、理由にはならないし、結果は所詮結果でしかないですからね。
そういうのを、たまにはじっくりと考えてみることも大切だと思います。
[1回]