人間はいつの世も自分の遺伝子に対し忠実に再現した作品。
長い年月を掛けて先祖達が育て上げた遺伝子の核は、とても野蛮で卑しかった。そして己の心理を脅かす対象を攻撃し消滅に等しい状態にし、征服欲を満たしてきた。
近代になりそういった行為は野蛮であり見下される対象になったけれど、本当は見せないようにしているだけなのではないのかと考える。それら全てが人間の遺伝子の核にしっかりと息づいている。
近代だからこそ学問。近代だからこそ科学。或いは知識。そういった見て取れる華やかな衣装を纏い核を心の闇に沈めていく。沈めていかなければ世の流れの中で浮き上がりすぎてしまい、孤立する。征服した上での孤立とは違い、昔でいう村八分は人間の精神において多大なる衝撃と傷を残す。この感覚は遺伝子の核となり核の一部として残されている。残された核の一部は恐怖心。この恐怖心の核は鼠算式に(恐怖心の)展開を繰り返し簡単に心を崩壊してしまうことを人間は強く理解をしているはず。
理解していたからこそ歴史上でも孤独に関連する虐待行為が刑罰としてまかり通ってきたのだろう。
何のために鼻につくというだけで争うのか、何のために自分以外の人間との差を意識するのか、何のために立ち位置を意識して確保する必要があるのだろうか――。
プライドが無くてはいけないという遺伝子を所持している人間が多すぎるのかもしれない。
この世が時として虚しく儚く感じることがあるけれど、それもこれも無意味な戦いに対してのみ、心の真ん中を通過していく冷たい突風を感じる。
遺伝子とはコンピューターと同等だと私は考える。ひとつの条件に対し常に同じサイクルで脳内のプログラムは稼動する。無意識のエリアから自覚できる意識へと感情はのぼり詰めるけれど、その自覚できる意識のひとつが価値観。価値観の違いは愛の重さの誤差を痛切に提示してくるもの。そしてこの価値観の違いから人間同士の醜く悲惨な争いを招く。つまり誤解から生じる争い。
誤解が生じた場合、どんなに心の声を言葉にしても届かない時というのもある。
真剣に考えて本気で行動した、それら全ての行為が裏目に出ると心の中心に諸刃の剣を差し込まれる。
心は悲鳴を上げるけれど、何のための悲鳴なのだろうと思う。何の為の涙なのだろうと…。
その悲しみと涙は何に向けて発せられているのか、そして発することを仮に伝わったとして何をしたいのか。
時々悲しみが泉のように溢れすぎて分からなくなることがある。
ある日さまざまな思いを伝えるには言葉であり表現方法だと知り、実行してきたけれど、時折押し寄せる音の無い波だけが心を通過していく。それは悲しみを増幅することもあれば同時に押し流してくれることもある。
まだまだ何も分かっていない自分がいるのだという現実を残し、波にさらわれた思いを眺めていることがある。
人は孤独だ。いつの世も孤独である。
この世に生まれ落ち、そして逝くときも独りなのだ。
だからこそ思いを交じり合わすことのできる対象が必要なのだと思う。
人であれ、動物であれ、場所であれ、大好きな趣味であれ、自分の思いがそれらと交じり合うことは生きていくためには、いいや、生き抜いていくためには無くてはならない精神の糧だと――、
そう思うよ。
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【Cocco 強く儚い者たち PV】
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