今日の福島はとっても風が強くて変な物体が飛び交っているよ。
本当は(ブログ内で)書かないつもりでいたことがある。
だけれども、本当に気がついていることを書かないでいるのもどうだろ…。そう思ってあることを書く決心をしたよ。ま、風が凄まじかったから気持ちが固まったのかも(意味不明発言…)。
戦争は絶えずこの地球で起きている。
そして、貧困の状況によって我が子を売る人間がいる。
中国の何とかという所では、子供が誘拐され、お金持ちに売られていく。誘拐専門の(中間の)ヤツがいるんだよね。しかも政府もそういった中間の人間(いわゆるブローカーだよ)やお金持ちの味方だったりする。政府が絡むと、全ての事は有耶無耶になるんだよね。どこの国でも揉み消しがあるようにさ。
売られた子供は様々な意味で奴隷でしかない。
奴隷になってしまった場合、日本人もその奴隷を買うし、他の国の人間も買う。連れてかえる意味での買うもあれば、その時だけの買うもある。
「闇の子供たち」映画になったよね。きっと、「事実の裏に見える表」それが(映画としての)闇の子供たちなんだと思うよ。
本当は「裏の事実」が息を潜めてあるんだと、そう考える。
※小説も出ているから気になる人は読んでみるといいよ。
※動画you tube
【「闇の子供たち」 答えはない、しかしこれはみるべき映画である】
http://jp.youtube.com/watch?v=F5bnFjQUVko
ボランティア団体がそういった最悪の状況と思える人間を救済する。
救済された人間は命拾いをするかもしれない。もしかしたらボランティア団体に「生涯思えるであろう感謝の思いの全て」を向けるかもしれないよ。
救われた人間が子供だとしても大人だとしても、そういった思いに国境も年齢も環境も関係ないよね。
だけれども、私が言いたいのはここから先の話なの。
最悪の状況に置かれたそれらの人間は――、
「何を願い生きているのか」ということ。
ボランティアが助けたところで何か変わるのかな。
一時的に(今が)助かったというだけじゃないのと思うの。
あ――、ボランティアの批判じゃないからね。あくまでも救済される側の人間を対象に書いているつもりです。
仮に救済され、再び我が子を売らないという保証も無い。
ボランティアの希望と救済される側の人間の希望は、同化せず、異なるものだと思う。
生活が貧困だから仕方の無い事で片付くことでも無いし、生活の厳しさを知らない人間(当事者ではないのに)が綺麗事で口を挟めることでも無い。それらを理解しているつもり。未熟なりに理解したつもりだよ。
それでも、
「救済」事態が、「何も変わらない」
と思えてしまうのは私だけだろうか…。
枯渇し崩壊した精神と、枯渇し崩壊した土地。
何が正しくて、何が間違っているとか、そんな話はどうでも良くて。
ただ、ただ、儚く回る車輪を感じる。
きっと、現場で活躍するボランティアの人間も、同じような思いを感じずにはいれないのではないのかなと思う。
そして、2012年アセンションに踊らされる人間。踊る人間を餌に商売をする人間。
黒い意識が絡まり縺れる念の集合体。
そういった事柄もそうだし、他にもいろいろと事例はあるけれども、人間とは儚く愚かなんだと、自分も含めてそう感じるよ。
「本当にしたいこと」と、「実際にやれること」このふたつは根本が違うでしょ。
そのふたつを同一視してしまうことって、人間は多々あるんじゃないのと思うの。
この部分も含めて、いや、全体の中の原因のひとつとして、“「救済」事態が「何も変わらない」”という状況に結び付くのだと思うよ。
どんな人生だとしても、他人が誰かの人生を勝手に「これがあなたの幸せだよ」なんて言える権利も無い。
自己満足の何者でもないでしょ。
それが我が子の未来だったとしても「自分の人生では無い」わけで、ましてや夫婦であれ恋人であれ、これもまた「自分の人生では無い」のだから。
けれどもね、そうだったとしても、事実がどうであれ、儚いよね。
人間とは何なのかな…。そう感じずにはいられないね。
それでも、結局は、自分が何を望みどうなりたいのか。だからこそ何をしなくてはいけないのか。というごく当たり前のことに戻るんだろうね。
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