人は心の中でどんなに思っていても
それらを行動という眼に見える事柄に変換して表現しないと
周りは理解なんかしてくれなくて
周りは認めてなんかくれなくて
でもね
それは
当然のことなんだよと思う。
思っていることが伝わるでしょ。
こうすればあなたは分かってくれるよね。
言葉で言わなくたって伝わるでしょ。
それって
単なる言い訳なんだよね。
だから
結局
行動というものは
行動だけを美化させることでどうにかなると思われがちだけど
そんなんじゃなくてさ。
つまり
行動とは
心の思いを
時を刻む針のように
素直に伝えるための
我が心にのみ在る唯一無二の術(すべ)。
そんなんでしかないのだと感じているよ。
たとえば嫌な気持ちが心の中で渦巻いていたとしても
そういう時の素直って
黒く醜い気持ちをそのまま伝えることでもなくて
明るい意味に変換し誤魔化すことでもなくて
ただただ
心の中の
温度が高くなっている
その部分の渦巻く思いを
言葉として出した時
尋ねる気持ち
そんなものにしかならないんだよね。
この世で
自己の中で
何がどうなっても
決して変わらぬ
心の事実というものがある。
それは
その事実は
「言葉は行動を矯正し行動は心を表す鏡」
なんじゃないのかということ。
だって
行動の全てはかなしくも儚くも
本当という真理の表れでしかないのだから。
だからこそ
計算された行動という偽善の表面じゃなくて
心という内面が本当の心を行動として表すものだと
そう思えるよ。
それだとしても、結局は理解してもらえないかもしれないよ…。
案外、そう思うかもしれない。
でもね
それを受け取る側の
見抜く側にも
同じことが言えるわけでさ。
まあ、それを言ったら
「その(相手の出した)リアクションを知った時の自分」というポジションにも同じことが言えるけどね。
偽りの偽善は
何時しか剥がれ落ち
誰かの心に刃物を突き立てるもの。
行動としての美化された
行動としての洗練された
そういった技は
この世にごまんと溢れているし
そんなまやかしで心を奪われてしまう瞬間とかもあるけど
それでもね
そんな上辺だけのまやかしや幻想を磨いても
心や精神は腐れていくだけだよと
素直から掛け離れていくだけだよと
そんな風に思う。
自分の中だけの常識は
時として
とても大切な誰かへ刃物を突き立てるし
抉(えぐ)り取ることもしてしまうでしょ。
だからこそ
世の常識を理解しないといけないとは言わないけど
この世の中を
平らに
また、命在る生き物として
全体を読み取るということ。
それは欠かしてはいけない精神の洗練。
命と命の繋がりは
生半可なことでは繋がれないものだよ。
丁寧に丁寧に
下手で善いから
丁寧に。
不器用で善いから
丁寧に。
それは
赤ちゃんへ初めて贈るプレゼントを
一生懸命に編んでいる姿と似てて
だから
間違った網目があったら
いらつくとかじゃなくて
心の贈り物をしたいからこそ
間違ったところまで網目を解いたりして。
誤魔化しも技だよとは言うけれど
そんな言い訳は要らないでしょって思うのね。
そうやってさ
本当の一生懸命という
命の繋がりだけが
自然に意識なんかしなくても
密になっていくものなんだと思うよ。
嘘や偽り
傲慢や高飛車
誰かを自分よりも下に見ること
そういうのって
精神が洗練されていくことを邪魔するし
ましてや
世の常識という生き物の全体を捉えることや
平らに見ることなんかもできなくなるわけで。
だから
そんなものは
自分で生き辛くなるものでしかないんだよと思うの。
折角この世に命をともし
生を受けているのだから
自分が本当はどんなヤツで
どんなことができて
どんなことが好きで
どんなことが嫌いなのか
そういう
まやかしの鎧が無い
原寸大の
丸裸のままの
自分の本当を知ること
そんなのがほんのちょっとでもできたら
少しだけ善いことをしている気がして
仮に、それが数年後に
その気持ちが間違いだと浅はかだったと知ったとしても
それだとしても
少しだけ善いことをしている気がするから
それだけで心が救われたり
洗われたりもするし。
きっと
自分に善いことをしつづけていたら
大切な誰かにも
その善い気持ちをわけてあげたいなって
心から思えたりするものだよ。
拘る自分に拘ることをやめる。
たったそれだけのことだし
プライドを捨てた時に本当の誇りが出てくれたりして
生き易いものでしょ。
なんてね…
今の私はそんな風に感じています。
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