陰陽を勾玉で形どったマークがある。
俗に言う陰陽のマーク。
また
長所と短所という180度のラインを画(えが)いた
対極がある。
他には
二重人格や
本音とたてまえ…など。
きっと
まだまだ対極になっているものは
天文学的な数字として存在していることだろう。
これら異なりの中心は
真空のように尖った切っ先を剥きだしにし
互いが対立する力が働いているもの。
しかし
それは真上から見るから対立となるわけで。
じゃぁ、対立ではない状態が存在するとしたら
それらは何なのかということになる。
たぶん
その位置は
修行僧たちが挑み続ける精神の聖地なのかもしれない。
陰陽のマークにしても
短所と長所にしても
これらは中心点から生え出てくるまで待ちわびて名づけている。
つまり、中心から何かしら生え出てくるまで待ち、
これを「陰」とするみたいな意味なのだけど…
これって後付でしょ。
発信源となった物事はもっと違ってて
陰に出ても
陽に出ても
発信源から見たら
どっちに出たとしても
なんら不思議ではないということだとそう思う。
要は、蛇に咬まれました。
蛇に咬まれた場合の症状は以下の通りになります。
しかし、その症状には個人差があり……。
とまあ、こんなようなもんでさ。
この場合の陰陽の中心点とは
「蛇に咬まれたこと」
というものでしかないわけ。
その中心点を軸にして、陰陽と言われる症状が個人差によってでてくる。
ということだよね。
結局ね
陰陽というから変に考えてしまうだけのことでさ。
まあ、陰陽でいったら
白と黒
光と影みたいに
そういった対極という固定観念から離脱し
全くエリア違いの思考を持たないと
本当の中心点は分からないよってことなんだよね。
なんていうの…
時々、思うのはね。
哲学にしても思想にしてもさ
見えているものに拘りすぎて
何が基準で稼動しているのか。
そういうことを無視して、
この結果だとこうだよ、ああだよ。
なんてね、そうなっているように感じます。
見えるものに頼りすぎて考えるから
おかしいことを言い出すのかもねと思ったりもするよ。
感じたものを心の目で見て
そして
自分で整理して考える。
すると
自ずと中心点の方から
自然に寄ってくるもの。
そんな風に私は感じています。
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