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[注意] この文章は、宗教への勧誘でもすすめでもありません。
私が考える、宗教や神の思想にまつわる内容です。
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神を理解すること。それは宗教を理解するしか術がないのかもしれない。仮に霊感があり神を把握でき神との交信があっても、神を探求する者が答えを導くために辿り着く場所は宗教(入信するとかしないとかは別)なのだろう。
霊感を持つ者で生まれ付き神との関係を持っている者などいない。生まれ付きという部分だが、神と表現される何者かが憑いている事はあれ、それら神は一般の信仰されている神とは異なる。万が一、一般に信仰されている神が憑いているとしたら生まれ付きではない。それは途中からという事になる。これは、宗教を信仰している者にも同じことが言える。
ただし、神が憑いているという表現は噛み砕いたニュアンス。正式な表現をしたら、その人間のもとへ現れる瞬間があるというだけの事になる。
そして、私が言える事は、神は水から湧き上がる気泡のような存在であるということ。ここで言う気泡とは、神とは、実体の存在しない無でもあり有でもあるという意味。つまり、神とは、他の霊的な空間とも他のどのような霊とも異なっている。
宗教の存在により救われている人間が存在しているのは事実。どのような宗教に入信するとしても、其々の理由が存在している。
では、宗教を信仰していない私も含めた多くの日本人は、宗教をどんなふうに捕らえたら良いのだろうか。
宗教とは神の世界(神の存在しない宗教も有る)の経典なのではないかと思う。余りにも簡潔に書きすぎているかもしれないけれど、最後はそういう事になるだろうと考える。
つまり、人が本来どのようにして考え行動していくことが正しいのかという事。しかし、それは人間の正しい様ではなく、神の世界へ移行する人間が人間の感覚を捨て去り、人ではない感情(人ではない感情:神と同様の感情の意味)を持つ者だけが正しい世界へ辿り着けるという事なのだと思う。
神と表現されている世界観内の精神状態を、現実的に心理学の分野から考えると「通常と思える性格のエリア」に、存在できないはず。おそらく異常と思える数値が性格分析の結果で現れると思う。
しかし、それは単なる数値に過ぎない。ようは、分析結果として単に現在は存在していないという結果が、現実的に存在しているというだけの事。こういうタイプの正常な人間を、現代心理学の分析技術では判断が不可能なのだろうと思うし、そこまで技術が進んでいるとも思えない。
(全ての宗教の教祖が潜在意識から精神の革命を起こしているとは、考えられない。ただ、ここに書かれているものは一般論というよりも、真剣に修行をし、本当の意味で宗派に身を沈め穢れが一点も無い人を指して言っています)
どうして、異常と思える数値が出るであろうと予測できるのかを説明するね。
まず、宗教の基本は「邪心を持つべからず」という事。仏教式にいえば煩悩を持ってはいけないというような事なのだろう。じゃぁ、それら邪心を現実的な行動に例えると――、
人を妬んではいけない。
人を傷つけてはいけない。
善意以外の感情を持ってはいけない。
慈愛の気持ちを持ち、他人へほどこしを行なう(これに関しては認めていない宗教もある)
人間の欲を捨て、慎ましい最低限の生活をする。
崇拝する神(宗教によっては神ではないこともある)への祈りの気持ちや感謝の気持ちを大切にする。
など、そういった事柄があると思う。それらの決まりを潜在意識の部分から実行できる人間が存在している事も事実。
だけどね、仮に怒りという感情を抹消できた場合、そういう精神状態は現代の心理学では異常と判断される。
つまり、感情が欠落した人間として捕らえているから、正常と認めていないという事なの。だからと言って心身症のエリアにはいるかどうかは別。ま、怒りに限らず邪心や欲とかも含むけどね。
パーフェクトが異常者という事ではなく、さっきも説明したように、分析結果として単に現在は存在していない結果というだけの事なんだよ。
さて、神と宗教についての話はここまで。次は、宗教と人間の話。
宗教を信仰するものが必ずぶつかる壁。それは、神と人間という意識の違い。感情の違い。
人間が神になろうとすると、宗教の教えを忠実に行なわなくてはいけないよね。けれど、現実的な生活を営んでいる者にしたら、無謀な事が多すぎる。だから信者は疑問を持つ。疑問を持った信者を見て、宗教の上層部の人間は人間としての生活をしているからだと考え、出家を信者へ進める。出家した信者の中には、人間としての甘さを持っている者も存在しているから、上層部の人間は信仰心が足りないからだと修行を厳しくする。
という流れが出来るはず。ま、ひとつの例えにしかならないけれどね。
宗教って、そこまで信仰して初めて神に近づけるのだと思うよ。つまり下界(宗派に属していない一般人)との生活を完全に断ち切り、精神を磨き上げる。半端な気持ちじゃできないはず。
人である事を捨て、信仰する宗派へ己の身を捧げる事。そうする以外は、宗教に対して疑問を持ってしまうのは当然の結果だと思う。
例え、出家して宗派の中心に身を修めたとしても、同じ位置に存在する者同士の対立は存在する。そして、対立する者の中には、後々派閥を大きくし異質な宗教を立ち上げる事もある。
一般の信者が持つ疑問は、必然的に発生している疑問だよね。粗食にしても施しにしても自分の生活があるのなら、当たり前の疑問だよ。そしてその疑問は結論ともいえる。ま、出家する以外は疑問は消えない。ただ、出家しても、仲間内の派閥も防げない。中には邪心を消せない者も居るのだから仕方が無い。
そして、もうひとつ。ここに書かれている神の世界や宗教への出家。それらを本気で行なった場合、人の感情が幾分残っていると心や精神が破綻する可能性が高いという事。
人間の感情を捨てきれない者は、その宗派若しくは宗教が向いてない場合もあるし、生まれ付き存在している感情を司る遺伝子が限界になっている場合もある。
つまり、様々な理由(信仰心も含む)からこの世に疑問を抱いているか、或いはこの世に未練など無い者ではないと、出家や本格的な信仰は途方も無い旅立ちになるという事。
ただし、何度も説明するけど、信者としての真面目な信仰は、今の話(精神が破綻)とは全く別な意味になる。
宗教へ魂の全てを掛けて関わる人間とは、そういう事なのだと思う。
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