道徳とは正しいことだけを掬い取り表現する。
常々私は道徳というものに不満しか持てない。
言っていることは正しい。けれど、それだけじゃなくて補足しないとただの押し付けだよねと思う。
それは私が生きている上でまだまだ甘いのか或いは人間が出来ていないのかという結論に達することなのかもしれない。それに私が理解していないということで言うならば、道徳は長い年月を経てこの地球上に蔓延しているという事実がある。
だとしても私は思うのだ。道徳とは綺麗に飾りすぎて悪や邪を隠す道具になってしまっていると。
だからといって犯罪を斡旋したいとかじゃない。ただ単に言っていることは正しいかもしれないが一部だけを抜粋して、それを世の道徳であるとのたまうことに疑問を持っているということ。
人を殺してはいけない理由。
慈悲を施さなきゃいけない理由。
こういうものを考えていくと、まるで玉葱の皮はどこまでが皮なのか? と言っているのと同じように聞こえてくるよ。人を殺してはいけないといっても、戦争に借り出される兵士は人を殺した分だけ英雄であり、慈悲を施した坊さんは自分の死活に関わり床に伏せる。
道徳の中心がぶれるのは悪を混濁させた道徳をつくらないから矛先がおかしくなって、的を外した道徳が堂々と街を歩く。
だけれども、そんなものをつくったところで履き違えた悪の勇者が首を擡げる。
しかし、臭いものが増えないように美化した道徳を主張すると、この世の底辺から腐敗が進行していく。
まさに玉葱の皮……。
それでもいえるとしたら、人の思いは鏡であり運命に反映されてしまうということ。
道徳だとて綺麗ごとであれば己の核は腐れ醜汚に満ちてしまうということ。
道徳を知るには自分自身の核と向き合い、1度は道徳を捨てきらないといけない。つまり穢れに身を沈めなくては道徳は学べぬものだと考える。
高見の見物でいつも綺麗に着飾り、感情と脳内の思考がリンクせず、脳内の思考から綺麗ごとを吐く。
道徳という名の鎧を着込み武装する。
上澄みの道徳で鉄拳宜しく制裁を加える。
それらは無垢な人間の心を歪ませ破壊する。
子供が相手なら、子供は自分との位置関係により正しい正しくないという判断をする。それ故に破壊後は己の思考に依存し、それら苦悩を愛だと誤認し貪り続ける。その愛の形は余りにも儚く痛々しい。
道徳は頭ではなく心で感じるもの。
口から出る言葉が卑しくとも、卑しさ無くては道徳は語れぬものだと――、そう思う。
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