実力を出すという言葉がある。
そういう言葉の意味の根底を多くの人が履き違えているように感じることが多々あるのです。
実力を出すというからには、
必死になって
自分の持てる全ての力を
今吐き出すその的へ向けて
力一杯に当てる
周りの人間が認識しているであろうイメージをそんな風に受けることがあります。つまりは、原液100%飲料の全てを出し尽くすような。まるでその的へ全てを出し切り、更に燃え尽き、終始必死になる。そんな感じの印象ですかね…。
けど、それは実力を出し切るという言葉が相応しいのではなく、どちらかというと「目的の無い行動」になるのかなと思いますよ。
たとえば鑑定の時に、お客さんへ「実力を出し切って」と、伝えたかったとします。
でも、
多くの人は、その「実力を出し切る」という私が言いたいことを別の意味で捉えている。
だから、私はこんな風にいう。
「自分のやりたいと思う行動が100%だとしたら、○○%の力のでやってね」
だけど、
それでも
意味は通じにくいもの。
大抵は、そりゃ、手抜きしろってことだよね。と思ってしまう。
けど、それは違う。
手抜きとは
「30%果汁飲料」
ということ。
私が言いたいのはそれじゃない。
「3割分の量の入った原液」
それでやりなさいという意味。
というかね…。
実力を出し切るためには
「周りを見る力」
これを残しておかないと、本当の実力はでない。
よくさ、何時もの自分がだせたから上手くいったよ。とか聞くことあるでしょ。
そんなのと一緒。
必死になるのと
本気は
全く違う。
つまり、必死の状態とは「本気ではないこと」になるよね。
実力を出す場合はとうぜん本気じゃなきゃいけない。
じゃぁ、この本気はどうやって出すの?
まあ、平常心ともいうけど…
単に、いつもの自分。ってことでしょ。
つかさ、実力を出すということはね、手を抜くことではない。
実力を出すとは、自分が持ちうる行動として出せる範囲の利率を下げて、
更に、その下げた状態を本気になって行動した時に「何時もの自分でいれる状態」ということなんだよね。
これが、
利率を下げて本気になった結果が、「何時もの自分ではない」としたら、
結果的に
実力も出せてないし
おまけに
本気にもなれていない
ということになるんだよ。
なんというか、言葉の意味の落とし穴的存在とも言うべきなのか…。
そういうものはたくさんあるよね。
まあ、知っているつもりの言葉でも、言葉尻の僅かな表現の違いで、意味が違ったり字が異なったりもする。だから、辞書を引く習慣をつけるとかさ。
こういう部分で人は損をしてる。
しかも、大切な可能性をも流してしまう。
つか勿体無いよね。ほんとに。
【追記】
日本語自体が曖昧と言われているよね。
でもね、
それは曖昧なのではなく、文となっているその前後の言葉を無視して理解してしまうからなんじゃないのかとも思うよ。
また、実際、なにを言いたいのか自分でも理解できない認識できないで話をする人もいる。
だとしてもね、前後の文になっているものから考えても、何を言いたいのか解らないとしたら、わかるまで聴くことは大切だよね。
ちなみに、「それなり」とか「…的」といった日本語の曖昧さがある。
それも曲者だ。
それって、うまく文章を誤魔化しているか、前後に意味を明記してある上で書いているのか、そのどちらかだと思うよ。
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