人間が持ついっさいの欲を煩悩といいます。
人間の欲とは何時の時代でも修行僧の邪魔と成る。また、その煩悩があるからこそ励んでこれたともいうべき存在なのではないだろうか…。ま、人間の心情からしたら、我が一部の存在でありながらも複雑な位置にあることには違いないよね。
また、ある意味、辿り着く矛先は対極ではあるけど、共に戦って共に生き抜いた戦友のような存在だったりもするでしょう…。うん。だとしても、人によって捉え方は様々だ。
そして、時として、強靭な怨敵となり立ち行く先にたちはだかる巨大な壁――。
それが、煩悩。
私は仕事上、人間の肉体を(霊感で)見るけど、その場合、様々なバージョンにして見ることがある。
例えば、肉と骨として。神経と感情の組み合わせとして。など、その組み合わせは、その都度新しく生み出した組み合わせとも似ている。また、肉体というよりは、入れ物である器(肉体)を通して霊の状態を見ることがある。
さて、その煩悩だけど、これを霊的な意味で、そして、技術面からの見解を私は理解した。
理解した部分を文章で表現した場合、次のようになったのだ。
それぞれの因子(要素、要因)の存在は誰しもが所持している。
そして、因子同士が結合し、
「分子」となることで、
「煩悩」という物質をつくる。
が、
しかし、人々は、もともと存在している煩悩という単体の因子があると大昔から考えてきた。
また、
そのために人は苦悩するし、悟りを得ることが出来ないという観念も当然もたれてきた。
が、
それは、ある一定の側面からの表現だということです。
上記内容が側面なのだと言えたと言うことは、その部分の全体像を(少なくとも今の私の実力でという意味ですが)捉えたということにもなります。そこで、今回、把握した部分を書き残しておきます。
煩悩とは因子では無いです。
煩悩とは因子と因子が結合して出来上がった物質を示します。
この物質形成時の現象を「化学変化」だと言えます。
簡潔に言えば、その(結合して出来上がった)物質が煩悩です。
この物質をもとに、表現方法を変えた場合ですが、それを多くの人間が、「煩悩、依存、執着、殺気、欲、自分が無い、意志が無い、シャドー、影、ノイローゼ、心身症、精神病、など」と、認知(判断)したり(されたり)します。
また、
体内に在る、因子と因子は結合しやすい性質を持ち合わせています。
しかし、これらの因子が結合して出来てしまう煩悩は、
脳にとって正しく無いのです。
肉体の基準に反した物質です。
では、修行僧のように煩悩を消したとします。
そうすれば、脳に対し正しい反応をするのでしょうか。
いいえ、正しくはありません。
なぜなら、その場合の消すというのは、
煩悩という単体に対し「挑戦」した、「その結果」を、「消す」という言葉を用いて表現しているからです。
煩悩は分子と分子が結合して出来た物質だと先に説明していますよね。
ということは、その場合の消すとはこの記事の中での話しだとスジツマが合いません。
じゃぁ、脳に対し正しい状態の因子とはなんなのか。
因子と因子が「煩悩」を形成するためのものであったとしても、
結合という現象を起こさなければいいのです。
そして、それらを操作するのは「自己の意志や信念」ではなく、「意識」のみが操作できるのです。
その操作を別の表現にし、更に、ひと言で言うならば、「自己の認知能力」です。
ま、技術面を霊能師側からじゃなく、どの角度からも共通している表現方法を用いた場合は、上記のようになります。が、きっと、意味不明でしょう。だとしても、もしも、これが正しかったとしたら何れ他の人間も同じことを表現する者もでてくるでしょうし、案外、既にいるかもしれないですよね。
なんにせよ、今回書いた記事は、「このエリアに到達している人間(専門職や探求者といった輩を対象に言っているつもりです)」にしか理解できない記事になることは間違いないですね。
…暇をみてですが、一般向け(私が聖者であるとか、そんなことでは無く、記事自体が、余りにも技術的な表現で書いているという意味での“一般向け”ということですよ)に柔らかく噛み砕いた文章で記事にしますよ。
待っていてくださいね。
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