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(本文です)
先日、拍手からのコメントで「生きることが罪だと思っていました(過去形&一部抜粋)」というメッセージが寄せられました。
そのコメントについてここ数日間ずっと考えていました。
「生きることが罪」というのは、よく生きるという話しからのテーマにされやすいところでもあります。
まあ確かに生きていれば人は罪を犯します。
ですが、なにかそのコメントに違和感を感じました。
コメントをよせてくれた人は現在もその考えを継続しているわけではないので、その人の考えに疑問を持ったのではなく、あくまでも「生きることが罪」というその言葉に対してです。
私なりに考えた結果ですが
まず、違和感がどこから来たのかを考えたのですが、生きることが罪という方向からの思考はある断片からの考えになるのではと。つまりテーマのすり替えというところに辿りつきました。
テーマという単語は正しくないと思いますが、正しいこと、本当のこと、ではなく、正しいことや本当のことに依存している出来事なのではないのかなと思ったんです。
要は、肝心な話しを進めなきゃいけないのに関連している事柄にばかり目がいくというか、そんな状態のことを前文で言ってます。
「生きることが罪」という言葉に対し言わんとしていることをこの世の本当として言いなおしてしまえば「この世に当たり前なことなど無い」ということになるのではないのかと。
「生きることが罪」×
「この世に当たり前のことなど無い」○
という見方でいいのかなと考えをまとめました。
「この世に当たり前のことなど無い」とは謙虚さのことになりますが、
まあ謙虚さが無くなると人が人ではなくなりますからね。
謙虚さが欠如していくと脳が麻痺してきます。
欠如により起きうる事柄には「嘘・悪意・裏切り・犯罪」ざっと考えてもこれだけ出て来ますが、言い方を変えれば罪悪感の欠如のことになります。
そもそも罪悪感の欠如は謙虚さの欠如の中の一部分だと思うのですが、それらの欠如がある一定の深さまでいくと人の脳、つまり精神は破壊されていきます(あくまでも私の中でふだん見ている霊感の話しです)。
それこそ遺伝子レベルで人の基本系の構造である思考とはまったく異なった真逆のことを進行させるわけですから、最後はノイローゼとかになってもおかしくはないわけです。
結局、謙虚さとは人が人であり続けるための重要事項なのではないのかなと、結論の後の結論として考えが定まりました。
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