自己の中の常識の癒着は
自己の中の精神と思考の一体化を妨害するもの。
故に精神へのダメージと成り
何れ姿を現すもの。
固定された自分の中の常識。
その連鎖を解除するには
自分の中の自分と信頼関係を成立していくこと。
また、
これらの「自分と自分」の関係とは
医師と患者という関係ととても似ていて
強靭なそれぞれの無駄の無い純粋な欲が
同じゴールへと向く姿でもあり
その鉄則のもとで
医師と患者が共に歩むであろう治療。
その治療を目指し治療の工程を踏む様と酷似していると思うのだ。
そして
医師にはトップレベルの家庭教師が付く。
更に、家庭教師の口から吐き出される疑問が存在する。
吐き出される疑問は
自己の中で生まれた言葉へ向ける
自己の中の常識を疑う疑問。
家庭教師は答えを決して言わない。
なぜなら
人間の理解を超える機能をもともと脳が持っているのだから
答えなど出す必要もなく。
また
なによりも大切なことは
認識し認知するという自覚への作業を
精神の位置に居る「患者」である自分自身に気付かさせなくてはいけない。
つまり
医師を通し
肉体に混在している患者に
「考える」という行為を医師にさせることで
間接的に「患者であり、精神であり、自分でもある」その部分へ気付きを与えるということになる。
だからこそ
現段階の実力を吐き出す目的を持ち
「自己の中の常識への疑問」へ取り組む
誠実で忠実な医師という名の生徒がいる。
その誠実で忠実な「思考という名の医師」が居てくれるから
「精神としての自分自身。つまり患者」は身を委ね
ありとあらゆることを信頼できるし
自分の今わかりえることやできることをやろうと思えるもの。
それ故
医師が取り組む最初であり最終でもあるテーマは
読解力となるのだろう。
それ故
患者が回復へ向けて取り組んだ結果が
精神の鍛錬となるのであろう。
オセロや将棋の世界に浸っている人間が
何時の間にか自動的に「精神と思考の一体化」へと形成されていくように
人は読解力という分野を開拓していくことでも
精神と思考の一体化が成立するもの。
まあ、簡単に言えば
普段、当たり前のことに疑問を持つことは大切だし
疑問をもったらその都度、本当にそうなのか。という自分の思考への疑問を持つこと。
まあ、筋道が通っているのかいないのか。ということを考え続け、
その時々の自分なりの答えの分だけ、自分の精神力を高めてくれる。
そして、結果的に精神と思考のバランスがとれる。
まあ、その時に必ず起こることは
医師(思考)と患者(精神)のように
たとえ目的は同じであっても
取るべき行為や処置は異なるものだということです。
…最近はそんなことを考えていたりしています。
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