本気で考えたり迷ったりしている時に、誰かに相談もする。
しかし今の時代、インターネットを使わない手はない。
キーワードを入れて検索すればいろいろな情報を手にすることができる。
だが、記事を書いても書いた事実の保証も無いのが、インターネット。
だから結局、判断は自分。サイトや記事に惑わされてはいけないと誰もが思う。
そんな中で、ふとある人の論文に目がとまった。
それは嘘についての論文。
前半3分の1くらいは嘘とはどういうものかという理論にもとづいた話し。しかしそれ以降は、つ い て も 良 い 嘘 というのがあるという話しが終わりのほうまでずっと書いてあった。
3分の1以降の文章を読んで、結局なにがいいたいのかを真剣に考えてしまった。
また、テーマから微妙に分岐しているようにさえ思えた。
嘘についての論文を書く人の中には、道徳がとか、そうした事柄を噛まして書いている人もいるけれど、
私はどうかと思う。
なぜなら嘘という単体から分岐した話しが、道徳と繋がる可能性があるだけではないのかと、そう思うから。
すなわち道徳から考えれば、道徳の中には嘘が密接に関係しているかもしれないが、嘘そのものではないということ。
仮に道徳側から見た嘘についていうのであれば、嘘によって救われたというのなら、嘘をつかなくても、救われたと思える状況へ持っていくこともできただろうに、と。
私は嘘が嫌い。
数学の得意な人は分かるはず。嘘を隠すための途方もない努力というものが。
別に私は数学が得意なわけじゃない。ハッキリいってできない。ゆえに嫌い。
それだとしても分かる。嘘をつくのはばからしいと。
ただ嘘をつくという話しをどこまでも考察しようとすると、ニーチェだのカントだのと登場してしまう。
または宗教的な概念も関与してくることだろうと思う。
だが今書きたいのは
単に嘘をつくことについてどう思うのか、または考えるのかということ。
嘘を通せる者は初めから分厚い信頼の元でしか貫けないもの(それゆえ信頼の無いものが嘘を吐くことは、最悪だと考える)。
同時に頭も良くないと無理。
当然、見事な回転も必要。
最低でも、そうしたハードルの高いリスクが付きまとう。
高いハードルをクリアしつづければ嘘は完成する。
嘘ではなく、見た目は現実ということになる。
だがしかし
所詮、嘘は嘘でしょ。裏切りであり、人を騙していることには代わりがない。
じゃぁ、逆に、吐いても良い嘘とはなにか。
その人を思って良い嘘を言った。
だとしても「その人を思って」という事実を追求した場合、ただの偽善者となる。
すなわち「その人を思って」という場合、
自分が、という意思が根底に無ければ、全てが偽善へと辿りつくもの。そのはず。
そして他には、害に な ら な そ う な 嘘もある。
それでも嘘は嘘でしかない。
嘘。今現在、私の中の探求するテーマとして鎮座しています。
宗教的に考えたとしても、哲学や思想から考えたとしても、
本当のことはひとつだけ。そう思っています。
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