いきなり核心から。
外部からの侵入者が存在すると、そう認めているのは、自分の中の気持ち。
実際の現実では、見せたくない自分が暴かれたような気がして、瞬間的に隠そうとする。
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変な例えをすると、駅の階段で転び恥かしくなり、逃げるようにその場を去る、その瞬間のようなもの。
周りの好奇な視線が自分の中で起こっている出来事みたいに感じる。
しかし、自分の中で起こっているように感じる感覚は、自分の思い込み。事実ではなく、主観。
または現実と気持ちが同化したように感じ、現実の区別がつかなくなるような感覚。
けど事実は違う。
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あ、あの人転んだW (お笑いのテレビを見ているかのごとく、密かに笑えてしまう)
ああ、痛そう……(本気で)
ふん、ざまあみろ!(普段のストレスを現状の弱者に対し、ぶちまける系)
大丈夫かなあ……(所詮、他人事)
まあ、傍観者は好き勝手なことを思い巡らせている。でも、ただそれだけのこと。
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この時の抹消したくなる感覚が、
外部からの侵入者が存在すると、そう認めている自分の中の、気持ち。
ということになります。
だからこそ、侵入者(さっきのたとえだと、転んだ私)を排除しようとする。
ではなぜ、転んだ私を排除する必要があるのか………。
いや、転んだ私を排除する必要?というよりも、
転んだ後に、屈辱を感じ、 屈 辱 を 受 け た 自 分 は、許せないわけですよね。
すなわち、許せない気持ちとは、自分の中で発生していること……。
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だとすると、好奇な目で見られたことは事実であるけれど、今の現実では無いわけで。
同時に、今現在の状況で傷ついているという事柄が、理論的な意味で筋道がおかしくなってくるはず。
いや、しかし……
「でも、現に私は好奇な目で見られ傷ついているのに!」
と思っているとしても、 本 物 の 傷 か ど う か ? という疑問が残ります。
好奇な視線を受け、傷が付いたことにしてしまえば、好奇な視線のせいで受けた 屈 辱 は、和らぐはず。
好奇な視線<屈辱<心の傷
初めのキッカケのものよりも、痛い。または、悪い。という結果をだしてしまえば、
傷ついたのはあいつ等のせいだ
自分が○○なのは、仕方が無い
○○があったから、■■になったんだ
なんて、幾らでも言い訳が付いてくる。言い訳は誤魔化しでもあるかと……。
だから痛みが和らぐ。
そうした脳のトリックを暴き、初めて、自然な状態が現れるもの。
自然な状態は、案外、荒れ放題かもしれないし、とてもキレイかもしれない。
心は心の摂理にのっとり、あなたの知らないところで動いているわけで。
自然の法則=心の法則
これは不動の定義かと思いますよ。
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なので、なぜ、自分の中で発生した新たな気持ちを排除する必要があるのか?ということです。
もっと言えば、本当に排除しなくてはいけないのか?ということ。
この時の な ぜ を考察(明らかにするために、よく考え、調べることを)してくことで
気付きが生まれます。
結局、自分が何を考え何を感じているのか、ということを現地点よりも深く掘り下げるようなもの。
その答えは1人1人違います。当たり前か……。
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自分の中に在ると仮定している、侵入者。
それが自分自身だと、気が付かないことが多いもの。
侵入者を排除するということは、自分の一部を排除するというのと同じわけで。
転んだ後に、屈辱を感じ、 屈 辱 を 受 け た 自 分 は、許せないわけですよね。すなわち、許せない気持ちとは、自分の中で発生していること。
ということは、
自分の気持ち=侵入者
となるので、自分を拒否または排除している(あるいは、しようとしている)となります。
また、侵入者を排除しようと思っている段階で、 主 観 を 現 実 だ と思い込んでいたりするもの。
自分の中での現実と、現実は、違います。
自分を裏切らないというのは、まずは考えることから始るものだと思います。
だからこそ、本当のことを今の自分が分かる範囲で学んでいくことが必要なんじゃないかと。
本当のことというのは、普遍のものであり、唯一無二のことかと、そう考えています。
現実と主観の区別。
現実を知り、本当の自分で生きていくためにはとても肝心なことかなと、思います。
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